──龍斗──

濁った赤い目をぎらりと光らせながら、邪龍と言うのが相応しいだろうそれは、私達を睨み付けてきた。

その眼光、ゆらゆらと揺らめいている風な両の前脚から洩れる『力』の片鱗、鋭い、けれど歪に並ぶ牙が覗く口許から放たれる咆哮、その何も彼もが、私達の命を奪うことなど、赤子の手を捻るよりも容易い、と物語っていた。

けれど、退く者は、誰一人としていなかった。

誰も彼もが痩せ我慢をしていたのかも知れないけれど……、皆、敢えて、そのようなモノへ、一歩、踏み出してみせた。

────何をどうして、どのように戦う、と言う考えは、その時の私達はなかったように思う。

ここを突けば、と言うような処は見当たらなかったし、その大きさ故に、所謂小細工は無駄と思えたし、両の前脚からも、口からも尾からも、近付くことすら困難な力は迸っていたし、何よりも、何かを労すれば勝機も見えるような相手とは到底思えなかったから。

唯、ひたすらに。

何としてでも斃すこと、それだけを考え、それだけを思いながら、私達は、手足を、体を、動かしていたような憶えがある。

…………そんな風に、ともすれば宙に浮いているとすら感じられた『そこ』で私達は戦い続け、やがて、何をどれくらい、どれ程の刻、繰り返しているのかも判らなくなって。

私達の命の灯火が尽きるまで、永劫、この刻は繰り返され続けるのではないだろうかと、思わず疑い始めた時。

一際高い、邪龍の咆哮が『そこ』に轟いた。

──それが何を示す咆哮なのか、咄嗟には判らなかった。

耳を劈かれる哭声こくせいだ、と、それだけを思った。

そのようなことをしている時ではなかったのに、邪龍の哭声が響いた所為で、私達の動きはぴたりと止まり。

又、辺りの景色が色を変えた。

ふい、と変わった景色を見回せば、ああ、富士の頂に戻れたのだ、と悟れ、そこで漸く、私達は、あのモノを滅ぼせたのだと知った。

勝てたのだ……、と。

だけれども。

巨大な黒い龍は消え、何処とも知れぬ所も消えて、そこに在るのは富士の頂と私達のみとなっても、昼を夜に掏り替える空は元に戻っていなかった。

世の全てを覆い尽くす如くな淀んだ氣は渦巻いたまま在り、柳生崇高の呪いは費えておらぬと語っていた。

……あれ程のモノに打ち勝ち、荒れ狂う龍脈も制したのに、何故、何一つも正されぬのかと、私達は途方に暮れ……、が、直ぐに、その理由わけに気付いた。

邪龍との戦いを終えても尚、山頂に吹き荒れていた吹雪の向こう側から、夥しい血を流す額の傷口を押さえながら、ゆらり……、と柳生崇高が立ち上がったから。

「おのれ…………っ」

斃せども斃せども立ち上がってきたあの男は、あけに濡れた面の半分を覆う指の隙間から、血が目に入るのも構わず、射抜くように私達を見ていた。

そうして、一頻り私達を睨み付けた柳生崇高は。

己の不死身を証立てるように、然もなくば『道連れ』を拵えるかのように、『あの日』、私と京梧を貫いてみせた大刀を振り翳した。

私目掛けて。

……鈍色に光る刀が、何処か緩く振り下ろされるのを見詰めながら、私は拳を握り固め、構えを取り、奥義を放った。

秘拳・黄龍を。

振り下ろされた大刀と、放たれた秘拳・黄龍の氣塊がぶつかった刹那、一体何が起こったのかを見届けられた者は、私と柳生崇高以外にはいなかっただろう。

全ては、辺り一面を目映く覆った、光の中でのことだったから。

────あの後。

秘拳・黄龍の氣塊が纏う光の渦に、握り締めていた大刀を手から零した柳生の姿が溶けて、直後、彼が着込んでいた甲冑の懐深くに仕舞われていた筈の『陰陽之勾玉』が、まるで心を持っている風に私の方へと飛んで来て、目の前に浮かび、そのまま留まった。

何故なにゆえにそうなったのか、私には到底判らぬけれど、そうだったのは確かで、でも、私は咄嗟に、陰陽二つが組み合わさったまま、ふわふわと宙に浮かび続ける勾玉達へ向けて、首を横に振った。

二つの勾玉は、まるで、手に取れ、と迫って来ている様子だったけれど、私はどうしても、光を発し続けるそれを掴みたくなかった。

その時の気持ちを正しく言葉で言い表すのは到底適わぬが、兎に角、『陰陽之勾玉』を手にするのは嫌だった。

────要らぬ。

……そんな一言が、口を突いて出た。

それより後も、暫し勾玉達は宙に浮き続けていたけれど、やがて、諦めたと言わんばかりに自ら光ることを止め、陰と陽に分かれて、ぽとり、と雪の上に落ちた。

勾玉が二つに分かれて漸く、私は手を伸ばす気になり。雪の上に転がる二つを拾い上げたら、途端、富士の口から、太い太い光の柱が天へと昇った。

光の柱は長らく天へと注がれ続け、が、やがて、音もなく霞み。

全てが消えた時、雪は止み、空は晴れ、幾月振りかの陽光が、私達へと降り注いだ。