──京梧──
………………それから。
あの野郎が俺達の前から消え、この世に奴が掛けた呪いが解けて、久方振りに昼が来て、何でか、ひーちゃんが、握ってた『陰陽之勾玉』を劉に返した直ぐ後。
俺は思わず、ひーちゃんに駆け寄って、耳許で怒鳴った。
咄嗟のことだったのも、ああする以外どうしようもなかったんだろうってのも判ってたし、お前が無事ならそれでいい、と言ってやることも出来なくはなかったが、馬鹿野郎! と怒鳴らずにはいられなかった。
怒鳴るだけじゃ足りず、あいつの頭を拳骨でぶん殴りもした。
……一応、手加減はしたが。
が、怒鳴られたのは兎も角、殴られたのは納得いかないと、ひーちゃんは文句を零したから、俺はもう一度、俺の心の臓が止まりそうなことをしやがったてめぇが悪い! と一層の大声で怒鳴り飛ばしてから、やっと追い付いてきた、何も彼も終えられて、こいつも無事で……、って気持ちに突き飛ばされるまま、ひーちゃんを力一杯抱き締めた。
俺達の周りを仲間達が囲んでるってのも忘れて。
幾度も幾度も、良かった……、と繰り言のように呟きながら腕に抱いてたら、ひーちゃんは大人しく俺にされるままになって、俺の背に腕を回してきた。
……まあ、お互い、直ぐに正気──と言うか何と言うか──に戻ったから、俺達のそんな有様は長くは続かなかったが、連中の手前、我に返った時には流石に気拙くて、つっても、俺達の仲が兄弟みたいにいいのは何時ものことだと、どいつもこいつも太平楽なツラしてこっちを見てやがったから、俺達もしれっとそれに混ざり、さあ、江戸に帰ろうぜと、揃って山道を下りた。
足を進めながらも、チラと肩越しに振り返れば、斃しても斃してもあの野郎が立ち上がってきた所に、卒塔婆のように、奴の大刀が刺さってるのが見えた。
俺以外にも、それに気付いた奴はいた筈だが、敢えて、皆、それを見なかったことにしたようだった。
散々、自分は死なないの何のと言い垂れたあいつだが、斃されたことは確かなのだし──と少なくとも俺は信じていたし──、それくらいの細やかな情けがあっても悪くはねぇのかも知れねぇな、と。
何も彼もを、富士の頂に残して、俺達は去った。
俺自身、間の抜けた話にも程がある、と思ったんだが。
地の底の路を辿ってた時に起きた何だ彼
……間抜けだと思う。本気で間抜けな話だと思うが……、そうなっちまったのは真のことで、致し方なかったことでもあって。行きは、僅か二日足らずだった──と後で日付けを数えてみたら判った──道程を、帰りは何日も掛けて辿った。
裏街道を進んで東海道の吉原宿に出て、そっから一先ず箱根を目指して、関所の手前でもう一度裏側に逃げて……、ってな風に、遠回りをしながら旅を続けた俺達が内藤新宿に戻れたのは、富士を発ってから十日の上も過ぎた、年の瀬も年の瀬の。
大晦日の前日だった。
やっと昼が戻って来ただの、めでたい正月は目の前だのと、町中が浮かれ切ってた江戸では、桜が、一本残らず狂い咲いてた。
まるで、見えない線が引かれてるみたいに、江戸の外にある桜にゃ蕾も何も無いのに、一歩でも江戸に踏み込めば、満開の桜にお目に掛かれた。
川崎宿辺りの街道筋の景色は寒々しい冬のそれだったのに、品川宿を越えて暫くした辺りから、何処も彼処も薄紅色になったもんだから、「何だ、こりゃ!?」と俺達は度肝を抜かれて、目を擦ってみたり、俺のじゃなくて風祭の顔を抓ってみたりしたが、江戸中の桜が満開になってるようだ、ってのは、夢でも幻でもなかった。
────大晦日を翌日に控えた、冷え込みも厳しく、雪すら降り始めてる中、咲き誇る桜がある風景は、この世のものとは思えなかった。
どうにも、妙な心地にさせられた。
ひーちゃんも変な顔をしてたし、連中もそうだったし、龍泉寺で俺達を出迎えてくれた円空のジジイは、ちょいと深刻そうなツラしてた。
まあ、町の連中と仲間内の幾人かは本気で、「こういうのも綺麗だ」とか喜んでたし、俺や、やっぱり仲間内の幾人かは、「雪と桜とを一遍に楽しめるってのも乙だ」とか何とか嘯いたが。
どうしたって、『誤摩化し』は出来そうになかった。
雪が降るのが当たり前の年の瀬の頃に、桜が──しかも江戸中の桜が咲き乱れるなんて、おかしい、の一言に尽きるから。
柳生の野郎を斃して、野郎の呪いを祓った処で、あいつが引っ掻き回した龍脈や、引っ掻き回された龍脈の力に振り回された江戸の町は、早々簡単に元には戻らねぇんだな、と少なくとも俺は思い知らされた。
全てが終わったから、全てがかつてのように恙無く、なんて訳にゃいかねぇんだ、って。
…………そうして。
年の終わりを境に、何も知らない町の連中は無論、俺達は、鬼だの異形だのなんてモノは、御伽草子の中だけに出て来るモノだと思ってたあの頃に戻るんだろうが、多分、ひーちゃんは……。
円空のジジイに『黄龍の氣』の持ち主だと言われ、崑崙に勾玉を託された時には『何かを諦めたような顔』したひーちゃんは、そういう訳にはいかねぇかも知れない。
少なくとも暫くの間は。……とも思った。
緩やかに全てが元へと戻れば、余程のことがない限り──否、余程のことがあったとしても、俺は、俺よりも強い相手を求めて、俺って奴を一歩でも天下無双に近付けようと足掻いて、江戸を目指してたあの頃同様、俺だけの道を辿り直すんだろうが、ひーちゃんは。
ひーちゃんは、多分。……と。
全てが終わった今、『全て』も終わるのかも知れない、と。
季節外れに狂い咲く桜は、存外、花を保った。
今は冬なんだと知らしめるように降り続ける雪と共に、江戸中に花びらを舞い散らせた。
それを見ながら、俺は。
この桜が全て散った時、真の意で『全て』が終わるなら…………、と。
決心を抱えつつ、大晦日を迎えた。
……長かった、俺達の慶応二年は、そうやって終わった。