──慶応三年 初春──
──龍斗──
年が明けた。
慶応二年と言う年は去り、慶応三年がやって来た。
────慶応三年正月の元日は恙無かった。
この世が昼を取り戻すと共に、時諏佐先生の容態も、鬼哭村の様子も、あれよあれよと言う間に良くなって、時諏佐先生は、無理さえしなければ、だが、以前通りの日々が送れるようになっていたし、鬼哭村も、すっかり元通り、とまではいかぬまでも、それに近しくはあった。
私は京梧や藍達と共に、時諏佐先生や円空様への新年の挨拶を済ませ、その後、鬼哭村へと足を運んで、そちらでも新年の挨拶を済ませ、皆で酒を嗜んだり何だりと、楽しく、心穏やかに一日を過ごした。
……………………でも。
翌、正月の二日。
耳の早い杏花が、江戸の東側では、もう大分桜が散ったらしい、と言っていたが、内藤新宿では未だ、桜達は勢いを誇っていた。
新宿の外れの方では、ちらほら、散り始めた桜も出始めていたけれど、龍泉寺の周囲や鬼哭村のある山では、少なくとも、後一日二日は花を保つだろうと思えた。
──二日のその日、私、京梧、藍、雄慶、小鈴の五人で、元日に約束した通り、花園稲荷へ初詣に行った。
花園の辺りでも桜は綺麗に咲いていて、毎日眺めても、この季節に、しかも雪と桜が一度に、と言うのは、妙な心地がして仕方無い、と語らいながら私達は詣でを終えて、やはり初詣に訪れた仲間達や、往来で行き会った仲間達と新年の挨拶を交わしつつ、龍泉寺に戻った。
戻った龍泉寺には、円空様がおられた。
円空様は、私の戻りを待っておられたらしく、私の顔を見るなり、用があると仰られたので、それが終わったら皆でお茶にでもしようと、藍達は奥に引っ込み、京梧は、そろそろ見納めだろうから裏庭の桜でも眺めて来る、と行ってしまって、一人残った私は、円空様に連れられ、境内裏手にある、あの、龍脈を流す龍穴の入り口へ向かった。
私をそこへと連れ出した円空様は、「何故、今更ここに……」と訝しがる私を優しく見詰めながら、幾月もに亘った柳生崇高の暗躍の所為で、未だに龍脈の乱れが収まっておらぬことを告げてから、
「それに、御主達が富士より戻ってから、どうにも、ここの様子がおかしいのじゃ。元々からここは、永き間龍脈を流し続けて来た為、酷く危うい場所じゃが、それだけの所為とは思えん。瘴気が立ち籠めておるからの。……じゃから、どうしてか立ち籠めておる瘴気を祓う為にも、乱れが収まっておらぬ龍脈が、これ以上江戸の町に何かを及ぼしたりせぬようにする為にも、ここは、何人も立ち入れぬように、封印してしまわなければならぬ。そしてそれは、御主でなければ適わぬ。……解るな?」
……諭すように、私へそう言われた。
「はい。……解ります」
「………………そうか。頼むぞ、龍斗」
龍脈を流す龍穴の封印、それは、私にしか適わぬ、と告げられ、私は刹那、「そのようなこと、解りたくない」と思ったけれど、それでも、円空様の言葉に是と返した。
すれば円空様は、何時ぞやのように、私の頭を優しく撫でて下さって、何も案ずることはないからと言わんばかりに、背を摩っても下さって。軽くだけ唇を噛み締め、少しばかり俯きつつ、私は一歩、地の底へ続く、枯れ井戸にしか見えぬ例の『口』へと寄った。
「クククククククククク……」
────その時だった。
『口』の中から、地を這うような、低い嗤い声が湧いた。
それは、聞き覚えのある耳障りな嗤い声で、もしや……、と俯き加減だった面を上げれば、私と円空様の目の前に、黒繩翁が立っていた。
あの、悪霊が。
「ヤット……、ヤット、判ッタ……。御主ノ氣、我ガ貰イ受ケル。今コソ、我ノ真ノ姿ヲ見セヨウゾ!」
富士の山腹で討ち果たしたと思っていたのに、生き存らえていた黒繩翁は、嗤い声を立てつつ高らかに言い切って、禍々しい氣を膨れ上がらせ、その姿を変えた。
──黒繩翁が、自らの真の姿、と言ったそれは、蠅にそっくりだった。
とても巨大な黒い蠅。
その姿を一目見、円空様は、「この者は、遠い異国の悪霊だ」と呟いておられたが、円空様の心当たりに耳を貸している場合ではなかったから、何はともあれと逃げて頂き、私は相対すべく構えを取った。
あの悪霊が姿現した時、既に、彼等が得意とする、何処とも判らぬ所に引き摺り込むが如くの結界──なのだろう、恐らくは──の中に、私も円空様も取り込まれていたようで、あの者が、ムッとする程の瘴気を辺りに振り撒いても、直ぐそこの裏庭にいる筈の京梧にも、寺の中に入った藍達にも、彼の禍々しい氣は感じ取れなかったらしく、円空様をお護りしつつ、この悪霊と戦うのは少々骨が折れるやも、と思った私は、賭けになってしまうかも知れないが、秘拳・黄龍で一息に片を付けようと咄嗟に考え、その考えに従い、拳を振るった。
黒繩翁──否、蠅の姿になった悪霊は、中空に、何と言えばいいか……、蛇が這いずったような文字にしか私には見えなかったモノを描き出しつつ、異国の言葉で何やら唱えながら力を生んでおり、私が放った黄龍の氣塊は、まるで食むように、邪悪なその力に絡んだ。
瞬く間に、氣塊は、正しく悪霊の力を食んで、宙に四散させ、悪霊の黒い体は、金色
途端、結界は晴れ、悪霊は人形
「ニンゲン如キニ………………!!」
……そんな、怨嗟の声と共に消えた。
「私は……。……ああ、私は、ヒトだ」
悪霊が言い残したそれへ、ぽつり、思わずの呟きを洩らせば、何時の間にか私の傍らに立っておられた円空様は、又、私の頭を撫でて下さり、
「……終わったの。────さあ、龍斗。手を」
ゆっくり一度頷くと、私の手を取って、枯れ井戸そっくりな『口』の上に翳させた。
すれば、暗く狭い穴をぽかりと空けているそこが、ぽ……、と金に光った。
「これでもう、この路が開かれることはない。ここを開くに相応しい者が、それと望まぬ限り。────おお、そうじゃ。龍斗。忘れる処じゃった。新年の祝いに、お前にこれをやろうと思っておったのじゃ」
細やかに灯った淡い光が消えるのを待って、円空様は満足気に仰ると、にこにこと笑みつつ私を見詰め、懐から、何かを包んだ薄紙を取り出し私に握らせた。
「円空様? これは?」
何だろう、と開いた薄紙に包まれていたのは、黒白
「その二つの念珠は、互いに引き合い、共鳴りする力を持っておる。分け合い持てば、手にする者同士、何が遭っても、例え離れ離れになることがあったとしても、必ず互いを引き合わせてくれる。……まあ、容易く言えば、お守りのようなものじゃよ」
これは何だろう、何故これを譲って下さったのだろう、と訝しがる私に、円空様は、何処までも笑みながら仰って、
「……龍斗。頑張ったの。お前は本当に、よう頑張った。────さあ、行くといい。それを分け合いたいと想う、御主の片割れの許へ」
長い長い旅の果てに、やっと何処かに──否、何かに辿り着いた、そんなようなお顔を作られると、私の背中を押し出す風にされた。
…………円空様が私に下さった言葉、私に下さった一対の念珠、それ等は、「この方は一体、何を何処まで悟っておられるのだろう……?」との問いを胸の中に過らせて止まないものだったけれど、円空様の仰る通り、問いを飲み込んだ私は、頂いた一対の念珠を握り締め、京梧がいる筈の裏庭へと走った。