──京梧──

馬鹿みたいに突っ立って、馬鹿みたいに桜の古木だけを見上げ続けたら、足音が聞こえた。

駆けてる音だったそれは、近付いた、と思った途端、ゆっくりと歩くそれになって、何やってんだ? と思いながらも、俺は桜から目を逸らさなかった。

「……ああ、京梧」

足音と氣と気配から、やって来たのはひーちゃんだと判ってたが、駆けてたのに、わざとらしくゆっくり歩いて近付く、なんてことをしたくらいだからと、気付かぬ振りをしてたら、ひーちゃんは、たまたま通りすがりに見掛けたから、ってな感じの声を掛けながら、俺の傍らに寄った。

「お? ……何だ、ひーちゃん。ジジイの用事、もう終わったのか?」

だもんだから、俺は、付き合ってやるかと、声を掛けられて初めて気付いたって風に振り返って、ひーちゃんへ笑い掛けた。

「ああ。もう済んだ。…………処で、京梧?」

「ん? 何だ?」

「円空様に頂いたのだ」

一寸考えりゃ、声掛けるより先に、俺は諸々に気付いてたと判っただろうに、ひーちゃんは、何かいいことでもあったのか、どうしようもなく嬉しそうに、何時からか握り締めてたらしい念珠を俺に見せた。

薄紙に包まれたそれは、黒白一対になってるらしく、玉の色が違うだけで、作りも何もそっくりだった。

「念珠? ……何で、あのジジイ、こんな物寄越したんだ?」

「年始の祝いだそうだ。曰くがある品とのことで。何でも、この黒白一対の念珠は、互いに引き合い、共鳴りする力を持っていて、分け合い持てば、手にする者同士、何が遭っても、例え離れ離れになることがあったとしても、必ず互いを引き合わせてくれると言う逸話があるらしい」

「へーーーぇ……。こんな古臭い念珠に、そんな力があんのか?」

「円空様は、そう仰っていた。お守りのような物だ、とも仰っていたけれど……、でも、京梧? 私はこれを、お前に持っていて欲しい。お前と分け合いたいのだ」

「………………そうか。なら、有り難く貰っとくぜ。──ありがとよ、ひーちゃん」

ジジイから貰った曰く付きの念珠を披露しながら、まつわる逸話を話すひーちゃんの声音は、隠し切れない嬉しさが滲む、とても弾んだ声で。そんな声を聞きながら、そんな姿を見ながら、「ああ、『だから』か……」と、あいつが嬉しさを隠し切れずにいる理由わけを知った俺は、ほんの刹那のみ、本当に俺がこれを受け取ってもいいのか、と躊躇いはしたものの、有り難く、ひーちゃんが差し出して来た黒玉の念珠を受け取って、懐に仕舞った。

「……なあ、ひーちゃん」

────ひーちゃんに『のぞみ』を持たせたんだろう念珠の片割れを仕舞いながら、その時、どうして咄嗟に決意したのか、それは俺にも判らない。

どうして、「今しかない」と思ったのか、俺自身にも謎だが。

俺は確かにその時、「今しかない。今、この場で、江戸を離れると打ち明けちまおう」と思って、真っ直ぐに見詰めながら、ひーちゃんを呼んだ。

「何だ?」

「お前……、江戸が好きか?」

「……? ……ああ、好きだ。京梧、お前も好きだろう?」

「そりゃ勿論。……俺だって、江戸が好きだ。この街を護り通せて良かったと思ってる。この街で、色んな奴に出逢ったし、色んなことを教えられた。…………でもな、ひーちゃん。もう、江戸の街で、俺のすることはない気がするんだ」

「京梧……?」

俺の眼差しを、ひーちゃんは正面から受けてたが、俺が一息に言い切ったら、零さんばかりに瞳見開いて……、呆然とした風になった。

「……ひーちゃん。何も言わずに、俺と約束してくれるか。お前は、この江戸を護れ。俺は何処にいても、お前のことを信じてるから」

あいつの唇が何か言いたげに幾度も震えたのに気付いちゃいたが、俺は構わずに、遠回しな別れを告げた。

……告げ切った。

「…………嫌、だ……」

突き付けちまった別離に、先ず、ひーちゃんが返して寄越したのは、むずかる子供のように首を振りながらの、弱々しい呟きで、

「ひーちゃん」

俺は諭すように、ゆっくり静かに、ひーちゃんへ呼び掛けた。

「……………………ああ……」

────悟った……のだろう。

有無を言わせぬ風に呼び掛けられて、悟るしかなかったのだろう。

ひーちゃんは、躊躇いながらも頷き、暫し俯き、

「……代わりに……、その代わりに、京梧、一つ約束して欲しい」

何とか彼んとかって様子で伏せてた顔を持ち上げると、少しばかり気迫の籠った目付きになって、約束を、と言うや否や、俺の懐に手を突っ込み、寄越したばかりの念珠を引き摺り出すと、無理矢理、俺の左手に嵌めた。

「どんな?」

「…………待っている。例え何が遭ろうとも、お前の帰りを待っている。たった今、お前と交わした約束通り、私は江戸の街を護る。お前の、信じているとの言葉を裏切るような真似はしない。だからお前も、何が遭っても、何時の日か必ず私を迎えに来ると、約束して欲しい。その念珠を外さずに、旅の道連れとして欲しい。ずっとずっと、私はこの場所でお前を待っているから……」

俺は『我が儘』を押し通した、だから、ひーちゃんも思う通りにすれはいいと、されるに任せ、強引に嵌められた黒玉の念珠を見下ろしたら、あいつは、自分の左手にも片割れを嵌めつつ、約束を交わせと乞い出した。

ずっとずっと、この場所で待ち続けるから、何時の日か必ず、迎えに来て欲しい、と。

この場所で、待っているから、と。

「……ああ。────ひーちゃん。……龍斗。必ず、もう一度、ここで逢おう。この────新宿で」

言い募る声は、やがて涙声になった。

だから……、って訳じゃねぇが、俺は、ひーちゃんに……龍斗に、一度強く頷き返してから、泣き出しそうになっちまったあいつを慰める風に、緩く腕に抱いた。

『我が儘』放題のことを言って、『我が儘』放題のことをして、なのに、成せるかどうかも判らない誓いを交わした挙げ句、今更のように抱き締めるなんざ、碌でなしにも程がある……、とは思ったが……、どうしたって、そうせずにはいられず。

多分、胸の中じゃ俺を詰ったんだろうが、龍斗は、このままずっと、と言わんばかりに、俺の腕に縋ってた。

「……龍斗。この桜が全て散る頃、俺は…………──

「………………そうか……」

…………何時までも、何時までも、そうしていられればいいと、俺だって、ねがわなくはなかったけれど。

それは、叶う筈無い希いで。