受け取ったそれは、パイプのようで、パイプではなかった。
喫煙具としてのパイプのマウスピースに当たる部分に穴はなく、その先に嵌まっている、紙巻き煙草そっくりな太さと長さの、綺麗な装飾が施されている筒の中に、精油をしみ込ませたフィルター状の物を射し込み、それに火を点け燃やし、立ち上る煙と香りを楽しむ構造らしく。
随分と珍しい物のようだけれど、こんなの口に銜えてたら、嗅覚馬鹿にならないかなあ……? とこっそり思いながら九龍は、『似非パイプ』と勝手に命名したそれを、右手の指先に挟み、口許に持って行った。
流石に悪いと思ったので、銜えるまではしなかったが。
「それは、丘紫って言ってな」
真剣そのものの顔付きで、大事そうに『似非パイプ』を扱い、興味深そうに鼻をヒクヒクさせる九龍の態度が気に入ったのか、『彼』は講釈を垂れ始める。
「有名な、アロマのラベンダーだよね」
「ああ。不眠症に効果があったりするしな」
「不眠症……。……俺、リュウマチに効くって聞いたけど……」
「………………返せ」
ふんふんと、続く講釈に耳を貸しつつ、そう言えば以前読んだ本に、ラベンダーの精油はリュウマチに効くって書いてあったような、とポツリ九龍が洩らせば、それが気に障ったのか、眉間に皺を寄せて『彼』はパイプを取り上げ、ピシっと九龍の鼻先を指で弾いた。
「痛てっ」
「誤解されるような発言をするな」
「御免、そういうつもりじゃなかったんだけど……。…………あ、俺、葉佩九龍って言うんだ。君は?」
「……皆守甲太郎」
「ミナカミコウタロウ君、かあ……。……じゃあ、甲太郎だなっ!」
ピンっ! と痛く揺れた鼻を押さえながら、自己紹介が未だだった、と九龍は名乗り、『彼』のフルネームを聞き出し、にこぱっ! と右手を差し出した。
「はあ? ……まあ、好きに呼べ。お前の勝手だ。そう呼ばれて返事をするかどうかは、俺の勝手だし。────転校生」
だが、『彼』──甲太郎の右手は制服のズボンのポケットの中に突っ込まれたままで、左手は、似非パイプを掴んだままで、九龍が求めた、『友人としての第一歩目の握手』は、宙に浮いた。
「何? 因みに、俺の名前は葉佩九龍だって。転校生、が名前じゃないよ?」
それでも、めげることなく九龍は、話は続けてくれている甲太郎へ、行き場をなくした手を、ひらひらと振る。
「…………転校生。お前が楽しい学園生活を送りたいなら、一つだけ忠告しておく。《生徒会》の連中には目を付けられないことだ。いいな?」
「《生徒会》? 《生徒会》って、所謂生徒会? 先生に目を付けられるな、とかじゃなくて?」
「《生徒会》は《生徒会》、だ」
「よく判らないけど……まあ、いいや。教えてくれて有り難う。気を付けるようにする」
「気にするな。同級生のよしみって奴だ。……一応、忠告はしたぜ? 後は勝手にしろ。じゃあな」
揺れる指先を見詰め、真っ直ぐに見詰めて来る黒い瞳も見詰め、甲太郎は、世間話の延長のように、《生徒会》に関する忠告を九龍に与え、踵を返した。
「あっ、皆守クン。何処行くの?」
「屋上は、うるさいんでな。新しい寝床探しだ」
去り行く彼を明日香が呼び止めたが、彼が留まることはなく。
「あー、行っちゃった。……皆守クンも、あたし達と同じC組なんだよ。何時も、ああやって一人でいるんだ。本当は、いいとこもあるのになあ……。一年生の頃は、喧嘩っ早いんで有名だったけど、今はそんなこともないし……。サボリ魔なのは、今も昔も、なんだけど」
「へぇ……。そんな、手の早い処がある風には見えなかったけどな」
「黙って話聞いてれば、変なトコ詩人だしねー、皆守クン」
「あはは、確かに! 詩人って言うか、面白いこと言ってたね」
「面白いこと? そっかな?」
「だってさ…………。……あ、御免、何でもない」
「……? 変な九龍クン。ま、いっか。そろそろ教室戻る? チャイム鳴ったし。未だ少し時間あるから、一緒にお昼食べない? 買っておいたパンがあるんだ」
「え、いいの?」
「うんっ。ここの売店の焼きそばパンって、意外とイケるんだよっ」
「じゃあ、ご相伴に預かろうーっと。有り難う!」
厚い鉄の扉を潜って行った甲太郎を見送り、明日香は、ふう……と溜息を付いたが、気分転換が上手い質なのか、ころっと表情を変え、昼食を共にしようと九龍を促した。
故に、ほくほくと、会話を楽しみつつ明日香と並んで歩きながら、彼は、先程、明日香には告げられなかった想いを、脳裏に蘇らせた。
────皆守甲太郎という名の彼は、随分と『面白いこと』を言う。
『夢』と眠りを指し、安息を生産する時間、などという『面白い』ことを。
……『夢』は、確かに安息かも知れない。
睡眠は、安息である『夢』を生産する、有意義な時間かも知れない。
そう、彼の言う通り。
………………でも。
『夢』は、安息ばかりとは限らない。
『夢』には、悪夢もある。
……彼は、悪夢を見ないのだろうか。
眠りの中で、悪夢を見ることない程、幸せに生きて来たのだろうか。
…………それとも。
彼は本当は、安息と例えた『夢』など見ないのだろうか。
『夢』を、安息と例える程、『夢』を知らないのだろうか。
……いいや、もしかしたら、彼は。
『夢』を見る『暇』すら、ないのかも知れない。
何一つも見逃さない、見遣るモノの全てを刻み込める瞳を持っているから────と。
昼休みの終わりを予告するチャイムが鳴り、楽しそうに語らいながらも、少しばかり足早な九龍と明日香の足音に、潜んだ物陰にて聞き耳を立て。
二人の足音も、気配も消えるのを待って、皆守甲太郎は再び屋上へと戻った。
彼以外誰もいなくなった、ガラン……としたそこは、先程よりも強い風が通っていた。
己を包む、ラベンダーの香りすら、通り過ぎて行く風が運んで行ってしまう中、一人佇み。
ふい……っと彼は、空を仰いだ。
………………又、転校生がやって来た。
数日前に彼は、転校生がどうの、との『話』を聞いてはいたが、少しも気には止めなかった。
気にした処で仕方が無い。転校生が、如何なる転校生なのか、迎え入れてみなければ判る筈も無い、と。
転校生が《転校生》だったら、その時に改めて考えればいい。『今』の自分には関わり合いのないことだし、『個人的』にも、興味を持てる対象には成り得ない。そもそも、己は全てのモノに対する興味を失って久しい、とも。
だが、風渡る初秋の今日、眼前に現れた《転校生》は、有象無象の一人、との彼の想像を裏切っていた。
葉佩九龍と名乗った彼が、単なる転校生なのか、それとも《転校生》なのか、それは判らないけれど…………彼は。
童顔とも言える、可愛らしく整った面の中に据えられた彼の両の瞳は、随分と綺麗に澄んでいて、何よりも、全てを求めている風な光を宿していた。
何も彼もを、受け取ってくれるような。
或る意味では、何も無いから全てを受け止められる、とでも言っている風にも思えるような。
……だから。
誰に対しても取る、素っ気ない態度を九龍にも取ろうとして、甲太郎は失敗した。
何時もよりも饒舌になって、調子も狂って、告げなくても良かった忠告まで口にしてしまった。
言わずにはいられなかった。
そんな双眸を持つ彼が、もしも《転校生》だったら、と思ってしまって。
それくらい──己は、全てのモノに対する興味を失って久しい、との自覚を持つ彼に、要らぬ忠告を吐かせるくらい、九龍の瞳が湛える色は、甲太郎にとって、衝撃だった。
彼が、無意識に、心秘かに求め続けていたモノが、そして、求め続けていた者が、そこにあった。
「葉佩九龍、か…………」
────彼の名を呟き。瞳を思い出し。
《転校生》でなけれはいいのに、と願い。
甲太郎はその時、風に流れるラベンダーの香りを、刹那、忘れそうになった。