化学の授業だった、六時限目が終わった。

授業終了を告げるチャイムの音が終わるのを待って、「では、今日の授業はここまで」と宣言した担当教師の声を聞き流しながら、明日香ちゃんの言ってた通り、焼きそばパン、結構美味しかったなー、初めて食べたけどー、とぼんやり考えつつ、真新しい教科書やノートを九龍が片付け始めれば。

「おい、転校生」

気怠い声が、彼へ掛かった。

「うおっ? 甲太郎?」

「……やっぱり、そう呼びやがる気か…………。……って、何驚いた顔してんだ。サボリが多い俺が、折角こうして授業に出て来たんだ。クラスメートとして歓迎してくれよ」

声へと振り返れば、そこに立っていたのは甲太郎で、化学の授業中は姿を見なかったのに、と九龍は驚きを露にし、甲太郎は、名字でなく名前で呼ばれるのを不本意そうにしつつも、びっくりしている九龍の様子に、してやったりと思ったのか、ニヤリと笑った。

「歓迎? そりゃー勿論! だってさ、そういう風に話し掛けてくれたってことは、甲太郎も、転校生の俺を歓迎してくれてるってことだもんねっ」

「不必要にテンションの高い奴だな……。一緒のクラスってのも、何かの縁かも知れないって思っただけなんだが……」

それは、意地の悪い笑み、と例えられなくもなかったけれど、九龍は素直に笑み返し、小さく握り拳を固めた彼の右手を横目に見た甲太郎は呆れた。

「もう授業も終わったし、寮に帰るんだろ? 一緒に帰ろうぜ?」

「帰る帰る! 一緒に帰る!」

「だから、無駄にはしゃぐな。小学生じゃあるまいし。──行こうぜ。校則で、生徒は放課後には速やかに校内から出なければならない規則になってる」

「そうなの?」

「ああ。一遍くらい、生徒手帳読んどけ。──違反した者は、《生徒会》が厳しく取り締まるから、皆従順なものさ。……俺が、転校生の為を思って、《生徒会》には気を付けろと言った意味が判るだろ?」

「そうだねー。そんなに厳しく取り締まられるんじゃ。でも、そうかあ……。だったら益々、甲太郎には感謝しないと」

それでも九龍はひたすらに、満面の笑みだけを甲太郎に送り続け、ヒクッと甲太郎は唇の端を引き攣らせながら、一歩退いた。

「お、俺はあくまで、クラスメートとして忠告してるだけだからな? 《生徒会》に歯向かって無事でいた奴はいないんだ。《生徒会》──それがこの学園の規則ルールなのさ。何処の学校にだって、規則ってのはあんだろ? そいつをたまたま、天香うちでは《生徒会》が決めてるってだけの話だ」

「あ、あれ? 自主性を育む為に、学校運営は生徒に任せます、って奴か?」

「知らねえよ。興味も無いし。それに、どうだっていいだろう、そんなこと。ここに来る奴は、それを承知で入学するんだ、四の五の言ってみたって始まらない。──…………下校の鐘の音だ。行くぞ。早く支度しろ」

甲太郎が引いた分、きっちり九龍は前に出て、益々彼の口許は微妙な形になったが、好奇心旺盛に重ねられる質問には答え。

チャイムの音が響くと同時に踵を返した。

「あ、待てよ、甲太郎っ。待ってーーー!」

置いてくぞ、と向けられた背中に、ひゃー! と叫び、大慌てで荷物を鞄に突っ込むと、九龍は駆け出した。

「おい…………」

「ああ……。凄ぇ。俺、皆守が、八千穂以外の誰かとあんなに喋ってるとこ、初めて見た」

「あの、葉佩って転校生も凄ぇな。選りに選って、転校初日から皆守に懐くなんて」

「でも……案外親切な奴だったんだな、皆守って」

ゆっくりとした歩調で教室を出て行った甲太郎と、バタバタと賑やかに甲太郎を追って行った九龍を見送り、未だ残っていた彼等の同級生達は、俄には信じられないものを見た、と。

一様に、目を丸くした。

校舎を後にした二人は、寮へと向かう為、中庭を横切っていた。

笑顔以外の表情を忘れてしまった風に、にこにこしながら、今朝天香学園を訪れて、そのまま校舎に入ってしまったから、それ以外の施設の場所はよく判らない、と打ち明けた九龍に、甲太郎は、学校案内のパンフレットも読んでないのかと、又、盛大に呆れ。

「陽が暮れて来たから判り辛いかも知れないが。この中庭を北に行くと温室。南に行くとテニスコート。あそこの体育館と『Mummy's』って食堂の間を行くと、俺達の塒──学生寮」

校内施設のナビゲーションを始めた。

「Mummy? ミイラ? ……どーゆーネーミングセンス?」

「あのな。俺だって、そんなことまで知ってる訳じゃないぞ」

「や、甲太郎ってさ、こういうこと、澱みなく喋るからさ。何でも知ってるんじゃないか、って気になるんだ」

「……買い被りだな、それは」

ふんふん、と頷きながら位置関係を頭に叩き込んで、九龍は、思ったことをそのまま口にする。

が、それは、甲太郎の不興を買ったようで。

ムスっと彼は、似非パイプのマウスピースを音立てて噛んだ。

「御免、怒った?」

「別に。唯、ガキみたいに能天気な奴だな、と思っただけだ。……ああ。うん。そう考えれば納得がいく。無駄に他人に懐くのも、やたらとフレンドリーなのも」

「俺の何処がガキなんだよ」

「…………童顔だし? 身長だって俺よりは低いし?」

「この……。気にしてることをー!」

「ふん。そういうトコが、お子様の証拠なんじゃないのか? ……お前、ちゃんと女に興味とか持てんのか? 気になった女とかいるか? お友達ごっこ、の相手じゃなくて」

「女の子に、興味持てない訳がないでしょーが。でも、気になった子って言われても困る。転校初日に、何をどう見定めろと仰りますかね、この人は」

「お。一応、健全じゃないか。まあ、卒業まで長い。焦って、ヘマをやらないことだ。女ってのは、面倒な生き物だからな……」

九龍が案じたように、怒るまでは行かなかったらしいが、少しばかり甲太郎の機嫌は曲がった風で、意地悪のスイッチでも入れたのか、彼は、《転校生》をからかい出した。

「ほうほう。甲太郎は、女性は面倒な生き物だと知っている、と。成程」

転校初日だと言うのに気になったのは、女子ではなくお前、と思いつつ、九龍もやり返した。

「訂正させてくれ。男も、女も、面倒臭い。俺に言わせれば、人間なんて全部が面倒臭い。無気力万歳主義なんでね、俺は」

すれば、一目で九龍を惹き付けた瞳を、ちろっと流し、甲太郎は一瞬、表情をなくした。