月魅ちゃんとぶつかった時に打ったっぽい頭も、もう痛まなくなって来たのに、何でこんなに、視界に慣れないんだろう? と不思議に思いながらも駆け続けた九龍は、二階の廊下の突き当たりにある、小部屋に飛び込んだ。

用具室として使われているその部屋は、家庭科の被服の授業で使われる姿見だとか、予備の机や椅子と言った物が乱雑に仕舞われており、人が一人、息を殺して隠れるには、まあ、らしい場所で。

彼は、荷物の山を漁り始める。

「だーれだっ? なんつってな。おっと、動くなよ? 騒がれると面倒なんでな。どうやら、こっちに追って来たのは君一人か。中々、いい勘してるじゃないか。ここを抜け出すまで、一寸だけ付き合って貰おう。安心しな、痛い思いはさせないから」

そうしていれば、いきなり、月魅とぶつかっても根性で追い掛けた相手に背後を取られ。

無言のまま、九龍は真後ろに向かって思い切り蹴り上げた。

「うく……、鳩尾に……。くぉらぁぁぁっ! 何すんじゃいっ! ったく、何つー馬鹿力だ。そんなに力一杯蹴るこたないだろ?」

「おー。効くー。見よう見まねの甲ちゃん蹴り。偉い、俺」

上手いこと、踵が鴉室の鳩尾にヒットし、振り返った九龍は、ちょっぴり、自分で自分を褒めてみた。

「……おい。そいつが、校内で目撃されたっていう不審者か? 離れてろ、後は、俺が引き受ける」

「あ、甲──

──おー! 君はあの時の、無気力高校生君」

「ん? 何だ、あの時のおっさんじゃないか」

と、そこへ、どういう訳か甲太郎が姿を現し、何故か彼は、甲ちゃん、と呼び掛けようとした九龍を無視して、鴉室と話を始めてしまう。

「誰がおっさんだ、誰が」

「何してんだよ、こんな日中の校内で……。人目に付かないように潜んで調査するだの何だの言ってなかったか?」

「いや、そうなんだが……。調べたい場所があったんで、生徒が別のことに気を取られている間に、な」

「別のこと? ……まさか」

「そう。ツチノコ騒動。中々、名案だろ?」

「人騒がせな話だな……。そんなことより、早く逃げた方がいいんじゃないか? 直に、ここを探しに教師や生徒が来るぜ?」

「見逃してくれんのか?」

「別に、おっさんが捕まろうが捕まるまいが、俺には関係のない話だ。それに、《生徒会》や教師連中に事情聴取されるのもかったるい事この上無いしな。──お前も、見逃してやってもいいと思うだろ?」

「え? あの…………。うん、見逃しても、いいんじゃないかな、とは……」

やけにのほほんと話し続ける甲太郎も鴉室も、綺麗さっぱり、見知らぬ者がそこにいるかのように、自分のことを無視しているとしか思えなく。

挙げ句、感情の籠らぬ面のままの甲太郎に唐突に振り返られて、それまで、黙り込み、首を傾げるしか出来なかった九龍は、益々戸惑い、口籠った。

「意外と話が判るじゃないか。俺は、てっきり反対するもんだと思っていたがな」

「いやー、うんうん。君達若者の意見はよく判った。そんなに俺のことが好きだとは……」

「そうじゃない」

「じゃ、諸君。縁があったら、又会おう。又な、ベイビー」

「……ベイビー……。死語だろ、殆ど……」

でも、それでも、甲太郎も鴉室も態度一つ変わらず、さっさと宇宙刑事は駆け去り。

「全く……、とんだトラブルメーカーだぜ。只でさえ、肥後を唆したっていう謎の男の件で、ゴタゴタしてる時に……」

甲太郎はひたすら、九龍の存在など空気の如くに扱い続け、独り言を洩らした。

「たいぞーちゃんを唆した……? ゴタゴタ……?」

「……ああ、何でもない。それじゃ、俺は行くぞ? 怠いんで、今日はもう早退することにしたんだ。じゃあな」

「あ、待って! 待って、甲ちゃんっ!」

そうして、お義理程度に声を掛け、小部屋を出て行こうとする彼を、九龍は引き止める。

「はあ? 甲ちゃん? 何なんだよ、いきなり。あいつの真似か? 本当にお前、おかしいぜ? 大丈夫かよ。お前、俺のことを嫌ってるんじゃなかったのか? …………それはそうと、気になってたんだが、教室に戻る前にそこの鏡でも見た方がいいぞ。転んだみたいに、髪がぼさぼさだぜ?」

「おかしいのは、甲ちゃん…………。………………ええええええええええ!?」

本気の喧嘩をした訳でもないのに冷たくあしらい、更には、辻褄の合わないことを言う甲太郎に、プッと膨れつつ文句を言いながら、九龍は言われた通り、直ぐそこの姿見を覗き込んで、途端、絶叫した。

……自分は、確かに自分なのに。

葉佩九龍でしか有り得ないのに。

姿見に映るその姿は、月魅、だった。

「うっそ…………」

「どうしたんだよ、変な顔して、変な声出して」

その声に、驚愕している顔に、立ち去り掛けた足を、流石に甲太郎も止めた。

「え? だって…………」

だが、今度は九龍が甲太郎をそっちのけにして、頬を抓り。

「おい……、何やってるんだ?」

「あ、痛い。……おーやー…………。じゃあ……」

思わず、さわさわ、っと乳を揉み。

「おっ、おいっ!」

「……………………柔っこい……」

「あ、あのな……。お前、男の目の前で──

──『古人曰く』。……おー、月魅ちゃんだ…………」

月魅の口癖も呟いてみたりして。

「何言ってんだ、月魅はお前だろう? さっきのおっさんに、何処か怪我でもさせられたのか? おい、七瀬?」

「違う! そうじゃない! 俺は九龍だ。九龍なんだ、甲ちゃんっ!!」

これが現実であることと、甲太郎の目にも、今の自分は七瀬月魅としか映っていない、とを確信してから九龍は、甲太郎へ向き直り、捲し立て始めた。

「はあ? お前が七瀬じゃなくて、九ちゃんだ? どういう意味だよ」

「さっき、あの宇宙刑事追っ掛けてる時に、月魅ちゃんとぶつかって、どんがらがっしゃんになって、二人して引っ繰り返って、だから、その時に入れ替わっちゃったんじゃないかとーーー!」

「…………何、おかしなこと言い出してんだよ。オカルト雑誌の読み過ぎじゃないのか?」

「違うって! 信じて、甲ちゃんっ! 月魅ちゃんが、お前のこと甲ちゃんって呼んだり、あのおっさんのこと、宇宙刑事なんて言う訳ないだろーーっ!?」

「少しでも九ちゃんを知ってる奴なら、俺があいつに『甲ちゃん』と呼ばれてることも知ってる。宇宙刑事のことは、あいつから話を聞いてれば言える。担ぐのも、大概にしろよ。それとも、ノイローゼか何かか? カウンセラーにでも相談して来い。──とっとと、教室に戻れ。これからは、精々不審者には気を付けろよ。じゃあな」

しかし、甲太郎は九龍の必死の訴えを聞き届けてはくれず、去ってしまった。

「嘘ぉ……。何で信じてくれないんだよぅ、甲ちゃんの馬鹿ーーーー! 今夜こそ、カレーにプリン入れてやるーーーーー!」

故に、虚しく九龍は悪態を叫び、月魅のスカートのポケットに入っていた、司書室の鍵と書庫室の鍵だけはしっかり失敬してから、とぼとぼ、保健室を目指し始めた。