こぽり、と音がした。

聞き覚えのあるような、ないような、そんな音。

「蛋白質結晶化しました。酵素融合安定しています。第三培養槽の育種に蠕動」

…………ああ、この音は、水音だ。

そう思い当たった途端、何処より、無機質な声が聞こえて来た。

「それでは、実験を次の段階に移行しろ」

「未だ、時期尚早ではないか?」

「何を怖れている? 我々の計算に誤りはない」

随分と、不思議な声だ。

……聞こえて来た無機質な声に、そんなことを思っている内、無機質な声は、声達になって、声達は、会話を始めた。

「そうだ」

「何の為に多くの被験体を無駄にして来たと思っておるのだ?」

無機質で不思議な声達は、ほんの少しずつトーンが違うだけで、ともすれば、全て同一人物の声のようにすら思えて、でも、それは確かに、会話、であり。

声達の幾つかには、次第に、感情が籠り始めた。

「我々には、もう時間が残されていない……」

「早く、培養槽を開けるのだ」

……生きているモノだ、と。

声に籠り始めた感情に、少しばかり安堵し、けれど、感情を持つ、生きているモノが語るにしては、会話の内容は、不安を覚えずにはいられぬもので。

「早くしろ────

「全ての培養槽を開け放つのだ────

……嫌だな。何の話をしているんだろう。

…………声達の語る声に、不安を感じていたら、益々、声達には焦りが滲み。

────こぽり。

こぽり……こぽり…………ごぼ、り。

又、水音が聞こえた。

幾度も。

けれど、それより先は…………────

「うおあー…………?」

──九龍は、腹筋の力だけで上半身を九十度持ち上げ、がば、と起き上がった。

寝過ぎなのか何なのか、上手く開かない瞼をショボショボさせながら、それでも半分程開いて辺りを見回せば、そこは、京一と龍麻の部屋のリビング、と判り、どうしてこんなことになっているんだったか、と枕辺にあった制服を着ながら。

「わたしはぁ……おさかなぁ……。んー? おさかな……? おー……。わたしはぁ……おさかなぁ……」

何故か口を突いて出た馬鹿な一言を、不思議にも思わず彼は繰り返した。

「…………はあ?」

「魚?」

「……って言った……と思うけど」

それより一時間程前に目覚め、ダイニングのテーブルでコーヒーを飲んでいた為、九龍が目覚める処から、ずー……っと見ていた甲太郎と京一と龍麻は、いきなり始まった彼の謎な独り言に、へ? と目を点にする。

「水槽がー、こぽこぽでー」

「……おい、九ちゃん……。それとも、未だ七瀬なのか?」

「入れ替わっちまったショックで、どっかおかしくしたか?」

「……京一、縁起でもないこと言わない」

しかし、当の九龍は、そこに三人がいることも、不思議そうな顔をされていることも認識せず、ひすたら、思うまま喋り。

故に、そんな彼を目の当たりにした三人は、少しばかり顔色を変え。

「…………水槽。水槽……。あれ? あ、水槽じゃなくって、培養槽?」

「培養槽、ってお前な……」

「蛋白質の結晶化って、何だっけ?」

「…………お前、まさか寝惚けてるのか?」

やがて、こいつは寝惚けてるだけかも、と気付いた甲太郎は、ゆらぁ……と己の傍らに立った九龍へ腕を伸ばし、目一杯、頭をぶっ叩いた。

「痛っ! …………お? あ、甲ちゃんだ。おはよー!」

「おはよー、じゃないだろ、この馬鹿」

「……ん? 俺、何でここに……。あ、そうか。夕べ……。って! あああああ! 月魅ちゃんの体じゃない! 戻ってる! ひゃっほーーーーー!!」

「お前と喋ってると、疲れるのは何でだ……?」

甲太郎に引っ叩かれて、やっと九龍は本当に目覚めたようで、何故己がこの部屋にいるのかを思い出し、体が元に戻ったことにも気付き、うわーい! とはしゃぎながら喜び始めた。

「と、取り敢えず、コーヒーでも飲む?」

「飯もあるぞ?」

小踊りしている九龍と、未だ朝の内だと言うのに疲れ果てた顔になった甲太郎を見比べ、龍麻と京一は、無理矢理『普通』を引き摺り寄せる。

「あ、おはよーございます、お二人! 頂きますっ!」

「九ちゃん。寝惚けてたことへの謝罪はなしか」

「寝惚けた? ……え、俺、何か変なこと言った?」

「言った。思い切り。私はお魚、だとか、水槽がー、とか、水槽じゃなくて培養槽、とか、蛋白質の結晶化って何だ、とか」

「…………あーーー……。それ、多分夢の所為だ」

二人へも元気一杯挨拶をして、いそいそ九龍は椅子に座り、甲太郎のジト目の抗議に、見た、不思議な夢の話を始めた。

「夢?」

「うん。猛烈変な夢。風景とかはあんまりよく見えなかったんだけど、こぽこぽ、水槽に突っ込んであるエアモーターみたいな音がずっとしてる中で、どっちかって言えば気味の悪い声が、培養槽がどうの、とか、蛋白質が結晶化して酵素が安定して、とか話してる夢。……どっかで、見たんだか聞いたんだかしたことある気がするんだけどなー……。何だっけな、蛋白質の結晶化、って」

「構造生物学の本でも読んだんじゃないのか? 何で、そんな本を読んだんだか、俺は知らないが。でも、そうだって言うなら、夢の中に、その単語が出て来たのは納得出来る」

「へ? 構造生物学? …………あああああ、思い出した! 百科事典で読んだんだ! 偉いぞ、甲ちゃん! そっか、そっかー。あれ? でもそれって、昨日今日の話じゃないんだけどな。何で夢になんか……?」

「俺が知るか。生体分子の構造解析のことでも考えてた、とか」

「………………俺、そんなに難しいこと考えない」

「俺は、お前等が喋ってることが判んねえよ……」

「俺もー……。知らない言葉喋られてる気分……」

九龍が見た夢の話を軸に、彼と甲太郎は言い合い始めて、謎な単語が飛び交い始めた、と京一と龍麻は遠い目をした。

「俺は唯単に、読んだ百科事典に、そういう単語や項目が出て来たから知ってるだけですよ」

「右に同じく、だな」

「あ、甲ちゃんも、百科事典組?」

「いや、その手の本」

「……何で、好き好んでそんなもん…………。……あ、そっか。甲ちゃんの親御さんは、お医者さんって言ってたからか。甲ちゃん家には、その手の本が転がってたんだな、きっと。────それにしてもー。何であんな夢見たのかなあ……。心当たり、無い訳じゃないんだけど……」

遠い目になった後、見知らぬ者を見る目付きを京一も龍麻もしたから、少年達は口を揃えて、本で読んだだけだ、と主張し。

でも、何であんな夢、と九龍は再び、首を傾げた。