「どうやったんだか知らないが、寮の、しかも三階に、鍵抉じ開けて入って来た奴に同情した挙げ句、そんな安請け合いしてどうすんだ、馬鹿……」

「だってさー。ぶん殴っちゃった引け目もあって、つい……。夜明け前には出てくって言うしさー。……あ、机貸してくれるだけでいいよ。宇宙刑事がいる所で、『H.A.N.T』弄る訳にはいかないから、作業場所提供して貰えれば。甲ちゃんは寝ちゃってくれて構わないし、邪魔しないようにするから!」

盛大に頭を抱えながら、甲太郎が力無い説教を垂れても、九龍の浮かべた、反省の欠片も感じられない『にぱら笑い』は消えなかった。

「…………一寸、待て」

精神的な痛みを訴え出した額を押さえつつ、甲太郎は、少しだけ待て、と彼をしみじみ見詰め、少々頭を回転させ。

自身でも予想外に『健全な青少年』だった己を無理矢理抑え込んで、想いを寄せ続けている、しかも、つい先程泣き顔を見てしまった相手と一晩を共にするのと、叩き出したら確実に、誰かの部屋──取手とか、朱堂……は有り得そうにもないが、肥後とか真里野とかの所へ九龍が転がり込むだろうのと、果たして何方が己の精神に優しいか、を瞬きの間に秤に掛け。

「判った。と・く・べ・つ・に、泊めてやる」

人の気も知らないで、馬鹿九龍、との苛立ちを晴らす為の殴る蹴る、は明日朝に持ち越すことにして、『青春の齎す衝動』と戦うことを、甲太郎は選んだ。

「甲ちゃん。今の間は、一体何だったのでしょーか?」

「気にするな。些細なことだ」

「そお? ……ま、いいや。じゃ、お言葉に甘える! 机貸してー」

「程々にしろよ。幾ら俺だって、直ぐそこでお前にゴソゴソやられたら、気になって眠れやしないからな。……ああ、それから。クローゼットの奥に予備の毛布があるから、それ使え。……寒いだろ?」

「…………やっぱ、甲ちゃんは優しいね。……ありがと。お休み!」

快く、ではないが、蹴りも叩きもせず、泊めてやる、と言ってくれた甲太郎に笑みを深めた九龍は、言われた通りクローゼットから毛布を取り出し、室内灯を消すと、勉強机を占領し、卓上ライトを小さくだけ点けて、『H.A.N.T』と戦い始める。

「お? 甲ちゃんは、防虫剤もラベンダーの香り?」

「そんな訳あるか。馬鹿言ってないで、とっとと作業しちまえ。……お休み」

包まった毛布の匂いをクンクン嗅ぎながら、下らないことを言う彼に背を向け、暗い壁と向き合って、甲太郎は、無理矢理目を閉じた。

だが、そんな風にしてみた処で、彼に眠りは訪れず。

持参して来たのだろうノートをそろそろと捲り、遠慮しつつ『H.A.N.T』の撮影ボタンを押す音が九龍の方から響くのに、じっと耳を傾け続けた。

「……………………九ちゃん?」

────そうして、一時間程が過ぎた頃だろうか。

聞こえ続けていた音が途絶えて。

戻って来た、シン……とした静寂が続いて暫し、そろっと甲太郎は九龍を呼んだ。

けれど声に応えはなく、ベッドから抜け出て九龍の背後を取れば、机に突っ伏したまま、彼が寝てしまっているのが判り、甲太郎は溜息を付いた。

「全く…………」

背後を取っても、溜息を吐いても、九龍が起きる気配はなくて、仕方無し、『H.A.N.T』の電源を落とし、ノートを閉じ、卓上ライトの灯りを消して、暗闇の中、九龍から毛布を剥いで、制服の上衣もズボンも剥いで。

甲太郎は、抱え上げた彼の体を、ベッドの中に押し込む。

一応、起こしてしまわぬように気を付けながらも、苛立ちの乗った荒っぽい手付きで九龍を壁際に押しやり、自らも布団の中に潜り込むと、出来る限り彼より体を離し、ベッドの縁ギリギリに寄って、背を向け身を丸めた。

……本当は、九龍をその腕に掻き抱いて眠りたい、そんなことを思ったけれど。

こぽり、と音がした。

……ああ、又、あの音。でも、これは夢。

…………そう思った。

夢なのだから、目を開いても大丈夫。いっそ、何が起こっているのか見てやろう。

…………そうも思った。

だが、目を開いても、何もなかった。

そこには、唯、闇だけがあった。

────こぽり。

こぽり……こぽり…………ごぼ、り。

闇の中、音だけが、ひたすらに響き続けた。

以前のように、無機質で不思議な声は、一つも聞こえなかった。

……その代わり。

別の声が、水音に混ざった。

「………………たくない……」

混ざり始めた声は微かで、よくは聞き取れなかった。

だから、闇しか見えぬと判っていても、目を凝らし、そして耳を澄ませた。

「…………にたくない……」

そうすれば、声は少しだけ大きくなった。

え…………? と思った。

大きくなった声に、聞き覚えがあった。

「……たくない……」

「…………にたくない」

「死にたくない……」

「……死にたくない…………」

──聞き覚えのある声は、聞き覚えのある言葉となって、やがて、木霊のように幾重にも重なり、耳許で唸り始めた。

──……………………止めてくれ!

……その声を、その言葉を聞きたくなくて、両手を持ち上げ、耳を塞いだ。

「死にたくない」

…………でも。声は唸り続けた。

塞いだ筈の耳許で、何時までも。

「やだ…………。やだやだやだ……っ! 聞きたくない…………っ!」

────今、自分が見ているのは、夢だ。

悪夢だ。

……そう判っていながら、九龍は叫ばずにいられなかった。

二度と聞きたくない声、二度と聞きたくない科白、それが耳朶の直ぐそこで湧き上がり続けるのが堪らなく嫌で、逃げたくて、自分の意識が夢の世界から浮上しつつあるのも判っていても、彼は叫び、耳を塞いで、強く身を丸めた。

「おい、九ちゃん? どうした?」

殻に閉じ篭るように身を強張らせていたら、傍らから甲太郎の声がした。

「……甲ちゃん……? 甲太郎……っ!」

掛けられた甲太郎の声が、現実なのか幻なのか判らなかったけれど、九龍は形振なりふり構わず、声がした傍らへと腕を伸ばした。

「どうしたってんだよ…………」

縋るように手を伸ばせば、困惑しきりの声がし。

でも、現実なのか幻なのか判らない甲太郎は縋る腕を取って、囲うように抱き締めてくれた。

「甲ちゃん……甲ちゃんっ! …………俺、生きてる……?」

「……当たり前だろ。何言ってんだ、お前は。……ったく。変な夢でも見たのか? ──安心しろ、お前はちゃんと生きてる。……大丈夫だから、眠れ」

幻とは思えぬ温もりにしがみ付き、囈言のように問えば、呆れたように言いながらも、甲太郎は、より深く、抱き締めてくれた。

「うん……。寝る…………」

故に、ああ…………生きてるんだ、と。

強くて、暖かくて、丘紫の香りする腕にひたすら縋りながら、九龍は恐る恐る、眠りの縁を探した。