昇降口から覗いた外は、雨に濡れていた。
「ちっ、雨か……」
「朝は、あんなに天気良かったのに。結構降ってるなあ……」
「そうだな。濡れて行くには、一寸勢いが強過ぎる。仕方無い、傘を取って来るから、九ちゃんはここで待っててくれ。置き傘なんて、してないだろ?」
「あ、うん。ありがと、甲ちゃん」
「ああ」
傘も差さずに校舎を出たら、マミーズへと行くだけでも、ぐっしょりと濡れてしまいそうな強い雨に、甲太郎は面倒臭そうにしながらも、傘を取りに戻り、言われた通り、下足箱の一つに凭れて、九龍は彼の戻りを待った。
「……あ、九龍さん」
「おー、月魅ちゃーん」
「良かった。何処かでお会い出来たら、って思ってたんです」
ぽつん、と人気ない昇降口で一人佇む彼の脇を、月魅が通り掛り、九龍を見付けて立ち止まった。
「何?」
「私今、調べ物をしてる最中なんです。例の、ファントムのことを」
ハロー、と九龍が手を振れば、きょろっと辺りを見回した彼女は声を潜め、噂の彼の話を始める。
「ファントム? 又、何で?」
「司書室に残っている、図書委員の記録等を見ていたら、これまでも幾度となく、ファントムと思しき存在が目撃されていたことが判ったんです。何れの時も、生徒会とは反目する立場を保っていたようですが、その正体は今尚、謎に包まれたままです」
「…………幾度となく? え、何年間くらいに亘って?」
「確か…………初めてファントムのことが図書委員の記録に出て来たのは、三十年くらい前のことだったと思います。約三十年くらい前から、稀に、ファントムらしき存在の目撃談が記録に登場するようになって……、ああ、そうだわ。そう言えば、ファントムの登場頻度は徐々に上がっていて、この十数年に至っては、三、四年に一度くらいのペースになっていた気がします」
「ふうん…………。まさか、本物の幽霊ってことはないしな……」
「それは……私にも何とも。白い仮面に隠された素顔を見た者は誰もいませんから。但、ファントムが生徒会と反目する者である以上、必ずしも、九龍さんにとって危険な存在とは限らないんじゃないかな、とは……」
「…………どうかなー。それは未だ、判らない」
彼女の話は、約三十年にも及ぶ『ファントムの歴史』で、おや……? と首を捻りながら話を聞き終えた九龍は、謎は謎である限り、『謎』と思った方がいい、と告げた。
「……古人曰く──『人は、運命を避けようとして取った道で、しばしば運命に出逢う』。人は決して、運命から逃れることは出来ないのかも知れません。ですが、運命とは必ずしも、人の全てを支配するものではない……。人は、自分の信じる道を、思うように進めばいいのだと思います。気を付けて下さいね、九龍さん」
その呟きに、月魅は先人よりの言葉を呟き、運命を口にした。
「うん。有り難う、月魅ちゃん。今度又、皆で一緒にご飯でも食べようよ」
呟かれた『運命』の例え、それには言葉を返さず、九龍は彼女に手を振り。
「はい、じゃあ、又」
にこりと笑って、月魅は去った。
「運命、かあ…………。……運命なんて、クソ喰らえ、か。……京一さんは、やっぱりアニキかもー。…………って、ん……?」
図書室のある棟へと続く廊下を辿って行く彼女の背を見送りながら、運命なんか信じないに限る、と独り言ちていたら、寄り掛かり続けている下足箱の影から、怪し気な声が聞こえ。
「ウッ…………。うウッ……。ううウッ…………」
「誰? 誰かいる? 具合でも悪い?」
どう聞いても、苦しんでいるとしか思えぬ呻き声の主を、彼は探そうとした。
「うゥッ……。────!? みっ、見るナッ!」
「えっ? あ、ああ、うん! 見ない、見ない見ない!」
「あ、あのっ、自分は──。……あ、あのっ……、その……、どうしても、怖いのでありマス。自分を見る人の視線が……。痛くて、苦しくて……、恐ろしいのでありマス。ですから、そのッ……。…………。……は、ハハ……。何故、見も知らぬ方に自分はこんなことを話しているでありマスカ……。全く、情けないでありマス……」
「気にすることないよ。他人の視線が痛くて苦しくて怖いのは、君の所為じゃないしさ。案外、他の皆だって、そういう処あると思うよ? だから、大丈夫だって。……それに、ほら。見ず知らずの相手だから、打ち明け話が出来るってこともあるっしょ?」
しかし声の主は、強い口調で制したので、仕方無く、踏み出した一歩を彼は引っ込め。
ぽつぽつと、詫びるように理由を告げて来た声の主へ、そう言ってやった。
「そっ、そんな……、自分のような者に……。……貴殿の言葉は何故か、自分を安心させてくれるでありマス……。そうですね……、見も知らぬ方だからこそ、こうして話せるのかも知れないでありマス……。クッ……。だが、こんなことでは正義を貫くことなど出来ナイ……。こんなことデハ……」
掛けられた言葉に、安堵と感謝を見せて、けれど声の主は、正義が、と呟きながら、何処へと走り去った。
「………………何だったのかなー……」
「待たせたな、九ちゃん。……ん? どうした? 何か遭ったのか?」
バタバタと、ジャングルブーツの物らしき足音が完全に消え去ってから、狐に摘まれたような顔付きで、ひょいっと九龍は下足箱の影を覗き、そこへ、甲太郎が戻って来た。
「あ、それがさー……。あー、何と言うか……。……うん。懺悔室に於ける神父と信者のよーなひと時があった、と言うか。心傷付いた少年と、顔を見せ合わずに語らった、と言うか。そんな感じ……?」
「よく判らない」
「えーーーと。詳細を語りますとー。具合が悪そうな呻き声がその辺から聞こえたんで、誰でしょうか? と探そうとした処、こっちを見るなと言われまして、素直にそれに従いましたら、その声の主殿に、要約すれば自分は視線恐怖症、と打ち明けられましたので、気にするな、ガッツだ! と励ましてみたのです。──以上、詳細」
「視線恐怖症、ね。対人恐怖症の症状の一つだな。他人を意識し過ぎるとそうなる。他人の目なんか、気にしなきゃいいんだ」
奇妙な顔になっていた九龍に、訳を尋ねた甲太郎は、詳細を聞き終え、何処となく詰まらなそうに、似非パイプを銜えた。
「又、すぱっと斬り捨てましたなー、甲ちゃん。もう少し、労りのある表現をしようよ」
「労り云々じゃなく、九ちゃんから聞いた話のみで俺に思い付けたことを、正直に言っただけだ」
「……ま、ね。…………それも、或る意味では優しさ、かね」
アロマを香らせ始めた彼の言い種に、あーらら……、と眉間に皺を寄せながらも、酷く遠回しな優しさ、と思えなくもないか? と九龍は一人頷く。
「訳判らないこと言ってるな。ほら、飯行くぞ」
「んーーー」
「よっ、お二人さんっ。これからご飯?」
「ん? 八千穂」
「えっへへー。マミーズ行くんでしょ? 一緒していい?」
と、下足箱の蓋を開けた二人の許へ、今度は明日香が、ふらーっとやって来て。
「あ、うん。いいよー」
「大丈夫、二人の邪魔はしないから!」
「おいっ。それはどういう意味だ」
「気にしない、気にしないー。じゃー、マミーズへレッツゴー!」
「ったく……。ま、八千穂に見付かったのが運の尽きか。……ほら、九ちゃん。一寸狭いけど入れよ」
わあわあきゃあきゃあ騒ぎながら、可愛い折り畳み傘を開いた明日香も交え、彼等は昇降口を出た。