踏み込んだ阿門邸の玄関ロビーには、バー・九龍のマスターである、千貫が立っていた。

「ようこそいらっしゃいました。葉佩さん。八千穂さん。皆守さん」

「……あれ? バーのマスターだ。今日はここでお仕事なの?」

「おや、申し上げておりませんでしたか? わたくし、本業はこのお屋敷でのお勤めになります」

「え? ってことは、阿門クンの……?」

「はい。執事をしております」

「うわーー! セバスチャンだ!」

「おおおお。じゃあ、マスターの所行く度聞かせて貰った話の『坊ちゃん』って、帝等のことだったのかー……」

はて、何故バーのマスターがここに、との九龍と明日香の疑問に、千貫はさらりと応え、明日香が、執事と言えばセバスチャン、と少々マニアックな雄叫びを上げた横で、九龍は、マスターも《生徒会》サイドだったのか、面白い話をしてくれる、ちょいと胡散臭いけど人のいいバーテンダー、って思ってたのにー、と、ちょっぴりだけ拗ねた。

「皆様、当家の夜会にようこそおいで下さいました。お会い出来るかどうかは判りませんが、坊ちゃまは、葉佩さんにお会い出来るのを楽しみにしておりましたよ」

「……? 主催なのに、阿門クンは出席しないの……?」

「いえいえ、そういうことではなく。夜会は仮面舞踏会ですので、出席者の皆様にも、仮面を付けて頂くことになっておりまして。誰が誰なのかは判らないようになっておりますから」

「あ、そういうこと。面白そうー」

微かに九龍が口を尖らせたのに気付きはしたのだろうけれど、千貫は素知らぬ振りして、三人へと仮面を手渡した。

明日香に渡されたそれは、マスカレードで女性が付けるに向いた、典型的な仮面だったが、九龍と甲太郎に手渡されたのは、非常に見覚えのある、白い仮面で。

「これって……」

「ファントムの奴が付けてた仮面に、瓜二つだな」

初っぱなから『これ』か、と苦笑いしながらも、大人しく二人はマスクを被り、今宵の舞踏会場の、大広間に進んだ。

「二人共似合ってるー! 何か、ホントにパーティーって感じ。凄いね!」

一様に仮面を付けた、沢山の生徒達で溢れている大広間の雰囲気に、明日香は嬉しそうにはしゃぎ。

「あの…………」

「んーーと? あ、その声は鎌治?」

近付いて来たタキシード姿の仮面の少年──取手は、怖ず怖ずと、顔を隠しても尚目立った彼等に声を掛けた。

「う、うん。御免ね、こんな風に話し掛けるのは無粋かと思ったんだけど、はっちゃんを見付けたら、何だか嬉しくなってしまって……」

「気にしなくていいって。俺だって、話し掛けて貰って嬉しいよー? 処で、鎌治は何でその格好?」

「……あ、僕は、ピアノを弾くように言われてるから。だから参加したんだ。はっちゃん達が聴いてくれるなら、余計に頑張らなくちゃね。……それじゃ、又」

誰が誰やら判らぬ中、それでも友人達を見付けられたのが嬉しかったのだ、と取手は語って、が、演奏の準備をする為、直ぐに去ってしまい。

「鎌治、ホントにピアノ上手いからなー」

「……そうだな」

「…………そう言えば、おん、ちー……じゃなかった、『ちょっぴり』だけ歌とは相性悪い割に、俺が放課後、音楽室に鎌治のピアノ聴きに行くのは、甲ちゃん、黙って付き合ってくれるよね」

「お前の言う通り、『ちょっぴり』だけ、俺と歌との相性は悪いが、別に、音楽が嫌いな訳じゃないからな」

「ふーーーん。聴くのは好きなんだ? どんなのでも?」

「……ああ。別に、選り好みはしない。それに…………」

「お? それに?」

「…………いや、何でも。ま、兎に角そういうこった」

「成程。音楽全般嫌いなのかと思ってたけど……。なら、甲ちゃんの部屋で見るのは遠慮してた歌番組も、めでたく解禁だな。うんうん」

人混みの中に混ざって行った取手のピアノと音楽の話を、大広間の片隅で、九龍と甲太郎は交わした。

「こんばんは。楽しい夜を過ごしてるかしら?」

そうしていたら、今度は、妖艶な感じの女性の声が掛かり。

「うわーーー…………」

「おーーー、素敵且つ刺激的なドレスですなー」

「……派手だ」

黒いコートの男と連れ立ってやって来た、赤いドレスの女に、三名は、それぞれ「らしい」反応を見せた。

「あら、刺激的かしら? そうでもないでしょう?」

「え……。…………おかしいな……あたし、同い年の筈なんだけどな……。あ、でも、とっても似合ってるよ、双──

──ストップ。駄目よ。相手が誰だか判っても、明かさないのがこの夜会のルール」

揃ってドレスに注目した彼等を、女──咲重はコロコロと笑って、つい、自分と比べてしまったらしい明日香が、自身の名を口にし掛けたのを遮り。

「貴方達は踊りに行かないのかしら? 折角の舞踏会だもの、踊らなきゃ勿体無いわよ。…………ねえ、貴方。良かったら、あたしと踊って下さらない?」

伴奏を奏で始めた取手を振り返ってから、彼女は、すっと九龍へと手を差し出してみせた。

「俺なんかで宜しければ、幾らでもお相手させて頂きますよ?」

「ふふ、光栄だわ。……それじゃあ、少しの間、この彼をお借りするわね」

口許に、笑いの形の弧を描きつつ腕を伸ばして来た彼女にあるのが、如何なる思惑なのかは判らなかったけれど、「ま、いっか」と手を取り、明日香を見ているのか、甲太郎を見ているのか、それとも、己が連れである黒いコートの男──阿門を見ているのか掴めぬ咲重と共に、九龍はダンスの輪の中に溶けた。

「貴方、ダンスの経験はあるの?」

「一回だけ、踊ったことがあるって程度。御免ね? こんなのがお相手で」

「そう……。何を踊ったの?」

「スローフォックストロット」

「……冗談でしょ?」

「いーえ、ホントです。一寸した事情で、ぶっつけ本番で踊んなきゃならなくなっちゃったことがあってねー。いやー、あの時は青かったー……」

舞踏会場に流れる音楽は、四拍子のスローな曲で、踊れる? と尋ねて来た咲重に、あははー、と九龍は、過去の受難を語った。

「でも、言うからには踊れるのでしょう? ……さ、相手を」

如何なる状況に陥れば、ぶっつけ本番でスローフォックストロットを踊らなくてはならなくなるのか、咲重には想像出来なかったが、それなりには何とかなるのだろうと、彼女は、半ば九龍をリードするようにステップを踏み始めた。

「……貴方……危険な香りのする人ね。他の人からは決して感じない危険な香りが、様々、貴方からはする」

「そんなことないと思うけどな。第一俺は、人畜無害ですよー?」

踊る為、寄り添う風になった九龍から漂って来た、彼独特の香りを嗅いで、咲重は薄く笑った。

「誤摩化しても駄目よ。あたし、匂いには少しうるさい方なの。だから、判るわ。貴方の纏う危険な香りの中に、花の香りが混ざってるのも」

「え、ホントに? 俺、今フローラル? おかしーなー。さっき風呂入ったばっかなんだけど……。石鹸の香りじゃなくて?」

「………………貴方、自分で気付いてないの?」

「気付くって?」

「解ってないならいいのよ。気にしないで。…………踊ってくれて有り難う。次は、あの可愛いお嬢さんと踊ってみようかしら? ふふっ……」

彼女と九龍の身長差は殆どなく。

故に、難なく彼の耳許に口を寄せた彼女はそんなお喋りをしたが、囁かれたことの大部分が、本当に彼には判らず。

クスクス笑いながら、貴方とのダンスはもうお終い、と離れて行った彼女を、きょとんと見送った。