十二月十三日、月曜。

「んあー…………」

九龍は朝、酷く間抜けな声を放ちながら目覚めた。

「甲ちゃーん。朝だぞー。起きろー……?」

のそのそ起き上がり、きょろきょろと辺りを見回しながら何度か瞬きを繰り返し、狭いベッドで一緒に寝ていた甲太郎を、ぺしぺし、彼は叩く。

その程度で、彼が起きる筈など無いと、知ってはいたけれど。

──丁度一週間前、新しい同級生が転校して来た日、酷く体調を崩して倒れて以来、何故そんな『スイッチ』が入ったのか九龍には皆目見当も付かなかったが、甲太郎は酷く心配症且つ過保護になっていて、今まで以上に、小さい子供の世話を焼く母親のように九龍の行動に口を挟み、小言を垂れたり説教を垂れたりしながら面倒を見て歩いて、可能な限り傍に添い、夜も、自分の部屋の自分のベッドの中で、九龍を抱いて眠りたがった。

遺跡探索と調べ物に忙しい九龍の毎日は変わらなかったし、『閨での主導権を握るのは何方か争い』は続いていたので、夜毎、一つの布団に包まり眠ろうとも、文字通り、只抱き合うだけのことしか起こらず、相変わらず二人は『清い関係』のままだったが。

「んあ……? 何だろ、この匂い。いい匂いだけど……こんなん嗅いでたら、又寝そ……」

そういう訳で、夕べも共に眠った、未だ当分起きないだろう三年寝太郎を放置し、着替え、やはり一週間前、甲太郎に強引に持たされた勾玉のネックレスのような『お守り』を弄りながら、一旦自室に戻るべく、ふらりと廊下に出た九龍は、何処より、微睡みに誘われるような香りが漂っていることに気付いた。

かなり下火になった、皆守甲太郎と葉佩九龍は妖しい仲なんじゃないか、との噂が復活を果たす程、日々抱き合って眠っている所為で、ここの処ずっと、九龍は甲太郎と同程度のラベンダー臭を漂わせているが、嗅覚の方は馬鹿になっていなかったらしい。

「何だろうなー。誰か、香水の瓶でも割ったのかなあ……。でも、何か……嗅いだことがあるような、ないような、不思議ー、な匂い。うーむ……」

自分と甲太郎が同じ香りを持つようになってしまっていることには気付けない、が、未だ馬鹿ではない鼻をクンクンさせて、部屋に戻った彼は、支度を整え、鞄を持ち、甲太郎の部屋へと戻って、力尽くで布団と毛布を剥ぎ、甲太郎をベッドから床へと叩き落として、ぎゃあぎゃあ苦情を捲し立てる三年寝太郎をいなしながら、元気良く登校した。

寮から校舎へと向かう歩道でも、校舎の中も、起きた直後に嗅いだ、不思議な香りは漂っていたが、九龍は。

香りに慣れたのではなしに、何かの香りが学園中を覆っている、その事実すら、忘れた。

朝のホームルームが終わり、午前の授業をやり過ごし、としても。

明日香はずっと、何かを悩んでいる風な顔付きを崩さなかった。

「どったの? 明日香ちゃん。朝からずーっと、眉間に皺寄ってるよ」

もう昼休みが始まると言うのに、お弁当、とも、マミーズ、とも、売店、とも言い出さず、じっと席に座ったままの明日香に、九龍は声を掛けた。

「九チャン……。……今朝からずっと、いい匂いがしてるでしょう?」

「あ、うんうん。してるしてる。慣れちゃったんだか何なんだか、俺はもう、誰かに言われなきゃ判んないくらい、匂いのことなんか忘れちゃってるけど」

「この匂い嗅いでると、何だか頭の奥がぼうっとするような気がするって言うかで……、だからかなあ。一つ、どうしても思い出せないことがあるんだ」

「思い出せないって?」

「……朝、テニス部の子に、時計台に幽霊が出たって噂聞いたんだ。時計台の幽霊は、この学園の六つ目の怪談で、『六番目の少女』って呼ばれててね。悪さとかする訳じゃなくって、唯、時計台からこっちを見てる、小さな女の子の霊なんだって。でね、その女の子の霊が、誰かに似てる、って話になったんだけど……、どうしても、その『誰か』が思い出せないの。C組の誰かで、あたし達もよく知ってる筈なんだけど……誰に訊いても思い出せないって言うんだ。真っ黒な、長い髪した女の子がいた筈なのに…………」

「長い髪した、女の子…………?」

「あら……。八千穂さんも?」

「お前達もか……」

苦しそうな顔をして、必死に明日香が思い出そうとしている、長い黒髪の同級生に心当たりが無く、九龍が首を捻れば、そこへ、亜柚子と夕薙がやって来た。

「え? ひな先生も、夕薙クンも?」

「ああ。今、雛川先生とそんな話をしていたんだ」

「このクラスに、もう一人、誰かがいたような気がするの。けれど、出席簿を幾ら見返してみても、思い当たる名前がなくて……。だから、教室まで来てみたんだけど、やっぱり判らないわ……」

「俺もなんだ。何時も窓際で一人、外を見詰めていた女子がいたように思うんだが、どうしても、思い出せなくてな。誰かが何か覚えてないかと、そこの廊下をウロウロしていたら、先生と行き会って。……お前達も、覚えてないんだな?」

「うん……。思い出せない。でも……何だろう、すっごく胸が痛いの。何だか凄く不安で、凄く怖い…………」

「………………御免。そんな子、いた……?」

己がそうであるように、確かにいた筈の同級生を、亜柚子も夕薙も思い出せないと知って、明日香は泣きそうになり、九龍は、明日香以上にくしゃりと顔を歪めた。

「白岐幽花──だろ」

明日香の席を取り囲んだ四名が、難しい顔して、思い出せない『彼女』のことを話しているのを、少し離れた所から眺めていた甲太郎が、冷めた風な顔して近付きつつ、言った。

「あ、皆守クン」

「お前達が言ってるのは、白岐幽花って奴のことだ」

「しらき、かすか…………。うーん、確かに何処かで聞いた覚えはあるんだけど……」

「白岐さん……。白岐幽花、さん…………。そんな生徒、いたかしら……」

「白岐幽花、か……」

事も無げに、誰もが思い出せずにいた、白岐幽花、という名を口にしてから甲太郎は一同を見回したが、明日香も亜柚子も夕薙も、名を告げられても尚判らぬと、揃って首を振り。

「覚えてないんだな? 忘れちまったんだな?」

甲太郎は、憂鬱そうに溜息を零し。

「あの……。一寸、その……。御免…………」

恋人が洩らした、重苦しい溜息を聞くや否や、九龍はがたりと立ち上がった。

「九ちゃん?」

「…………御免っ。俺、その…………っ!」

この上もなく瞳を見開き、唇を震わせる彼に、甲太郎は困惑し、どうしたのだと九龍を覗き込んだが、あからさまに顔を背け、動揺を隠そうともせずに、九龍は教室から駆け去った。

「え、何々? 九チャン、どうしちゃったの?」

「ちっ……。おいっ! 待てよ、九ちゃんっ!」

突然のことに、明日香は驚き目を丸くし。

甲太郎は、逃げるように出て行った九龍の後を追うべく、全速力で走り出した。