教室を飛び出した九龍が目指したのは、屋上だった。

この季節はかなり冷たい、が、良い風は吹いているだろうそこで風に当たれば、朦朧としている頭も少しははっきりして、明日香が、頭がぼうっとすると言っていた匂いも掻き消されて、落ち着きを取り戻せるような気がしたから。

「忘れてる……? 忘れちゃった? 俺、同級生だったかも知れない女の子のこと、忘れてる……? 明日香ちゃんだってひな先生だって大和だって、そんな子がいたってことは覚えてるのに、俺は…………っ。嘘……。嘘だ、そんなの…………っ!」

重たい鉄の扉を乱暴にぶち開け、転がり込むようにして踏み込んだ屋上の給水塔の一つに、ぶつける風に背を預け、ずるずるとしゃがみ込み、ぎゅっと抱えた両膝に、九龍は顔を伏せた。

「九ちゃんっ。九龍っ!」

かたかたと、寒さに凍えているかの如くに身を震わせ、彼が自分で自分を抱き締めたそこへ、甲太郎が追い付いた。

「おい。どうした? 大丈夫か? 又、具合でも悪いとか?」

「……甲ちゃん…………」

「どうしたんだよ、そんなに震えちまって」

「甲ちゃん……っ。甲ちゃん、甲ちゃんっっ!」

「お、おいっ。九ちゃん……?」

駆け寄り、眼前にて片膝付いた甲太郎を見上げ様、がばりと九龍は彼にしがみ付き、縋り付かれた甲太郎は、唯、九龍の体を受け止め。

「俺は……俺は、葉佩九龍だよなっ? 甲ちゃんは甲ちゃんで、皆守甲太郎って名前でっ。間違ってない? 俺、ちゃんと自分のこと覚えてる? 甲ちゃんのこと覚えてる? 俺、大丈夫かな? 頭、おかしくなってない?」

「ああ。大丈夫だ。お前の名前は葉佩九龍。俺は皆守甲太郎。間違ってなんかない。お前は自分のことも、俺のことも、ちゃんと覚えてる。おかしくなんかなってない」

「じゃあ、何で? 何で俺、甲ちゃんが言ってた、白岐って子のこと、忘れちゃってる? 名前だけじゃなくて、そういう子がいたってことも、俺は思い出せないし、明日香ちゃんが言ってた、朝からしてる香りのことも、俺には、もう、あやふやで…………っ。甲ちゃん……っ。俺、やっぱりおかしくなっちゃったんじゃ…………」

「九ちゃん、一寸落ち着け。お前はおかしくなんかなってない。白岐のことを忘れちまってるのは、お前だけじゃない。八千穂達だってそうだろう? 後は度合いの問題だ。……しっかりしろよ。こんなこと、どう考えたって普通じゃない。皆が皆、或る日突然一斉に、白岐って女の存在を忘れちまうなんて、異常だろう? 白岐のことを忘れたのは、お前自身じゃなくって、他に原因があるんだ。……違うか?」

酷く取り乱し、錯乱しているとしか思えぬことを言い募る九龍を抱き締め、背中を摩ってやりながら、甲太郎は宥め諭した。

「………………違わ、ない……」

そうしてやれば、徐々に、九龍は落ち着きを取り戻し。

「そっか……。俺の所為じゃないんだ、良かった…………。俺、『又』おかしくなっちゃったんじゃないかと思ったんだ……。甲ちゃんのことも、皆のことも、自分のことすら、忘れちゃうんじゃないか、って思っちゃって…………」

抱かれた胸の中で、ぽつぽつ、彼は言葉を洩らした。

「『又』?」

「あ、えっと…………。何でもない…………」

「………………九ちゃん。俺には、言えないことか?」

洩れて来た、くぐもった声の言い回しに引っ掛かりを感じて、甲太郎は九龍の顔を覗き込む。

「……そうじゃないんだけど…………。でも、あの……。……御免、甲ちゃん。甲ちゃんには、ちゃんと話すから。覚悟決まるまで、待って……」

「…………判った」

「御免な? 甲ちゃん……」

「いや……」

揺らぐばかりの瞳を真っ向から捉えて問うてみても、九龍の口は重く、待つ以外に術はないかと、どうにも頼りなげな風情ばかりを見せる恋人を、甲太郎は深く抱き直した。

「それはそうとさ、甲ちゃん」

すれば、やがて、九龍は完全に落ち着き、気分も思考も切り替ったようで。

「ん?」

「俺含めた皆が、彼女のこと忘れちゃってるのには原因があるってのは、甲ちゃんに気付かせて貰ったから、まあ、いいとして。……当の彼女は? 俺達の同級生な白岐幽花さんは、何処に行っちゃったんだろう。昨日まで、確かにいたんだよな?」

「……九ちゃん。お前、あいつを探したいのか?」

「…………うん。探したい。皆に忘れられて、存在さえひっそりと消されちゃうなんて、そんなの駄目だ。探せるなら探す。探せなくても、探すっ」

彼は、揺らぐばかりだった黒い瞳に強い意志を宿して、幽花を探す、と言い切った。

「そうか……。……なら、付き合ってやる。お前の気が済むまでな。──探すとするか、白岐を」

「うんっ! 期待してるぞ、甲ちゃんっ!」

「ああ。……俺はもうこれ以上、お前の困ったツラも、八千穂の落ち込んだツラも、見ていたくない」

「……ありがと、甲ちゃん」

何時もの調子を取り戻した途端、甲太郎に言わせれば、後先考えない熱血モードになった九龍を、困ったように見遣って、苦笑しながら、ポンポン、と恋人の背を叩き、するりと甲太郎は立ち上がって、九龍もそれに倣った。

「皆がおかしくなってるのは、例の香りの所為だろう。……九ちゃん、これ以上、自分を見失うなよ?」

「応! だいじょぶ、だいじょぶ。甲ちゃんが一緒にいてくれれば、だいじょーぶー」

「……そうかよ。──ま、何はともあれ、マミーズで腹拵え、だな」

「カレーで?」

「当たり前だろ。カレー以外、何を食うんだよ」

三階へと続く階段へ向かおうと、屋上を横切りながら、二人は軽い感じで言葉を交わし。

…………が。

「あのーー、さ。甲ちゃん」

「何だよ」

「訊いてもいい……?」

扉を潜る寸前、九龍は声を潜めて、甲太郎の顔色を窺った。

「だから、何をだ?」

「皆が彼女のこと忘れてるのに、どうして、甲ちゃんは忘れてないのかなー、と…………。なして?」

「………………それ、は……」

「……甲ちゃん?」

「………………………………九ちゃん。お前にだけは……話しとく。例え、この学園の全ての奴が、あいつの存在を忘れ去っても、俺は……忘れることが出来ない」

「どうして……? 理由は?」

「理由は……二つ。でも……理由に関しては、その内、な。今は、俺も言えない……」

「…………うん。判った。なら、俺も今は訊かない」

上目遣いの問いに、言い淀みながらも甲太郎は答え、無理に聞き出すつもりはないと、九龍はにっこり笑ってみせた。

「ん! じゃあ、お互い気分を変えて! カレーを食うべく、マミーズに突撃ー!」

「さあて。何カレーにするかな……」

「俺はー。んーーーー……。今日は、甘口なカレーがいいかなー」

「甘口? 辛くないカレーはカレーじゃないぞ?」

「いいんだよ。今日は何となくそんな気分なんだ」

そうして、彼等は肩を並べ。

喧々囂々、カレーの辛さに付いて言い合いながら、屋上を出て行った。