中央棟一階から南棟一階へと渡り、五階まで続く長い階段を、二人が昇ろうとした時。

不意に、阿門が現れた。

「葉佩九龍……。どうしても、お前はこの先に進むか。進むことを止めないのか」

「おーや、帝等。……うん、止めない。俺が決めたことは、この間、言った筈だけど?」

「《執行委員》を解散させただけでは飽き足らず、尚も学園の秩序を乱すのだな、《転校生》よ」

「帝等から見れば、そういうことになっちゃうのかもね。でも、俺に、そんなつもりはないよ」

「だが、結果的にそうなることは目に見えている。俺には阿門の名と《生徒会長》という立場に懸けて、この学園の秩序を正す義務があるのだ」

行方を遮るように立ちはだかった阿門と、九龍の視線がぶつかり、二人は一歩も引かぬと、暫しきつく見詰め合った。

「……俺は、九ちゃんが転校して来た時からずっと、九ちゃんのことを近くで見て来た。少なくともこいつに悪意はない。こいつの言葉に、救いを見出した者がいることは確かだ」

黒いコートのポケットに両手を差し入れたまま、九龍の眼前から退こうとしない阿門へ、甲太郎は言った。

「…………お前が、そんなことを言うとはな。──いいだろう。今回は譲ろう。俺も、お前にそうまで言わせる葉佩と、話がしてみたくなった。だが、このまま先へ進もうとする以上、俺にとって《転校生》は、排除すべき存在であることに代わりない。それだけは、忘れるな」

視線だけは九龍に注ぎながらも、甲太郎の一言に免じたかの如く、阿門はその場より立ち去った。

「……甲ちゃん」

「何だ?」

「帝等もさあ、なんんだ言って、優しいよな。……うんうん。いい奴だなー、目一杯堅物だけど」

「…………そうかもな。……行こうぜ」

「あ、うん」

廊下の向こうへ歩いて行く阿門の背中をじっと眺め、ふむ……、と九龍は腕を組み、甲太郎は口角だけを歪めて薄く笑って。

「……《生徒会》か…………」

「時計台に行ってみれば、何かしらの答えは見付かるかもだよ」

彼等は改めて、階段を昇り始めた。

滅多に人が来ることはないらしい、時計台の入口には、咲重が立っていた。

「お。咲重ちゃん」

「やっぱり来たのね、葉佩九龍。……ねえ。あの夜は楽しかったわね。又、機会があれば踊りたいわ。その時は、どうしてぶっつけ本番でスローフォックストロットなんか踊らなきゃならなくなったのか、教えて頂戴?」

「うん。その時には、包み隠さずお教えしましょうぞ」

「……あらあら。貴方、中々上手に嘘を言うのね。そんな機会、来る筈無いってことも、あたしと貴方はこうなる運命だったってことも、判ってるくせに。何時か、あそこで、あたしと向き合う時が来ることも」

「かもね。……でも。『偉大な野生の勘』な兄貴が言った通り。『運命なんて信じない。人の一生が運命に定められてるなんて、そんなこと有り得ない。運命なんか、クソ喰らえ』……って。俺も、そう思うから? 判ってなんかいなかったよ、俺と咲重ちゃんがこんな風に向き合うなんて、ね」

赤い長髪を優雅に掻き上げながら、一歩二歩、近付いて来る彼女に、にっこりと九龍は笑ってみせ。

「いよいよ、お出ましだな、《役員》。そんなに、九ちゃんが邪魔か……?」

九龍の襟首引っ掴んで傍らに引き寄せ、甲太郎は咲重を見据えた。

「……貴方は黙っていて頂戴。皆守甲太郎。葉佩を、これ以上先に行かせる訳にはいかないの」

「《生徒会》が守ろうとしているのは、この学園でも、生徒でもなく、あの遺跡だ。なのに、どうして白岐にこだわる? こいつは、友人を取り戻そうとしてるだけだ」

「…………ふふふっ」

眼光だけは鋭く、が、表情は移ろわせぬ甲太郎を、咲重は笑った。

「何がおかしい」

「だって。貴方が、急にそんなこと言い出すから。貴方は毎日、唯ぼんやりと、ラベンダーの香りに埋もれて、時を見送っていただけだった。何の希望も目的も持たず、生きて行くことさえ面倒に思っていた筈の貴方が、そんな、血が通ってるようなこと言い出すんだもの、笑えるわ。──それにね。そんなこと、あたしに言うだけ無駄でしょう? 学園も生徒も遺跡も、あたしにはどうでもいいこと。あたしは唯、あの方の──阿門様のお役に立ちたいだけ」

「……愛ですな。…………咲重ちゃんがそうであるのと一緒で、俺は、幽花ちゃんを取り戻したいから先に進むよ。大事な友達だから」

甲太郎の科白を高らかに笑った彼女に、少々ムッとしながら、九龍は一歩、前へ進み出た。

「そう……。……なら、友情の為に、これ程の危険を侵せる貴方の想いの強さは認めてあげる。これでも、人の心のこと、多少は判るのよ? 時に美しく、時に醜く。儚く崩れてしまう想いもあれば、貴方のそれのように、決して変わらず続いて行く想いもあるってことくらいはね。……あの遺跡にも、そんな人の想いに似た、『お伽噺』が描かれていたわ」

「遺跡、か……。…………双樹。あそこは何なんだ。何故…………」

「……残念だけど、あたしには貴方の問いに答えることは出来ないわ。でも。貴方達を不毛な疑問から解き放ってあげることは出来る。何も彼も、忘れてしまいなさい」

九龍が前へと進んでも、甲太郎に問われても、彼女は綺麗に笑い続け、ふわり、あの香りを漂わせ始めた。

学園の至る所で香っていたそれよりも、遥かに濃厚に。

「……っ!」

「貴方達は忘れる。彼女のことも、遺跡のことも、あたしのことも。……そう、全て」

「………………甲ちゃん……っ」

「九ちゃん……、九龍っっ」

──忘れる。何も彼も。全て。

濃厚なあの香りを振り撒きながら咲重が囁いた科白より、逃れるように耳を覆って、九龍は甲太郎の名を叫びつつその場に踞り掛け、甲太郎は、彼を庇う風に抱いた。

「オーーーーーホホホホホッ! そうはいかないわよぅっ!」

その時、何処より、強烈な芳香を放つ一輪の薔薇が、彼等三人の中心に投げ込まれ、床へと突き刺さった薔薇は、咲重が漂わせていた香りを、瞬く間に掻き消した。

「このアタシの高貴な薔薇の香りに勝てる匂いなどないわ……」

薔薇と共に駆け付けたのは朱堂で、彼は、役目を果たした薔薇を取り上げると、甲高く笑いながら口に銜える。

「……そうね。あたしの繊細な香りじゃ太刀打ち出来ない程、強烈で悪趣味だわ」

「…………同感だな」

たった一輪のみで、学園中の人々の記憶を操った香りに打ち勝つ薔薇を愛する朱堂に、咲重も甲太郎も、若干呆れたように呟き。

「お黙りっ! ……ふんっ、負け犬達は好きに遠吠えてるといいわ。アタシは、ダーリンの愛の使者なんだからっ! そうよね、ダーリンっ?」

キーーーーっ! とヒステリーを起こした朱堂は、九龍へと愛を振り撒いたが。

「甲ちゃ……。甲ちゃんっ。甲太郎っっ!」

「九ちゃん?」

「頼むから……頼むからっ、俺の名前呼んでっ! 俺は、何も忘れてないって、そう言ってくれっ!!」

己を庇う腕の中で、九龍は絶叫した。