「九ちゃ──九龍? 九龍っ! おい、どうしたんだ、しっかりしろよっ!」

「きゃーーーーっ! どうしちゃったの、ダーリンーーっ!」

名を呼べと、忘れたことなど何も無いと言ってくれと、そう懇願する九龍に甲太郎は焦り、朱堂は慌てふためき出し。

「葉佩……?」

「双樹咲重、あんたの所為よっ! あんたの所為で、ダーリンがっ! まあ、アタシの薔薇のお陰で、あんたの匂いはもう効かないけどねっ! 愛の勝利よっ!」

「………………ねえ、朱堂ちゃん。貴方、随分と葉佩がお気に入りのようだけど……、どうしてなの?」

乞われた通り、名を呼びながら彼の頬を叩く甲太郎を見詰め、九龍を見遣り、咲重は朱堂に尋ねた。

「あらヤダ。あんたともあろう人が、この匂いに気付かないの? ダーリンからはね、自由の匂いがするのよ!」

「……朱堂ちゃん。クサいわ」

「どういう意味よっ! ま、それも、アタシにしか判らないことなんだわ。アタシとダーリンの間には、愛があるから! そんな匂いばっかり操ってるあんたにも、ラベンダーとカレーしか嗅ぎ分けられないって噂の皆守ちゃんにも、判る訳ないわねえええ」

「朱堂っ! 双樹っ! うるさい、黙ってろっ! ──九龍っ。判ってんだろうっ? お前は葉佩九龍だっ。お前は何にも忘れちゃいないし、何にも失くしてないっっ。九龍っ!」

問われ、自慢げに朱堂は胸を張り、咲重はひたすら呆れ、九龍の様子を窺いながらも、そんな会話を始めた二人を、甲太郎は怒鳴り飛ばし。

「………………俺は、葉佩九龍、で……。甲ちゃんは……皆守甲太郎。……うん、大丈夫……」

両腕で抱えるようにしていた頭を、やっと九龍は持ち上げた。

「平気か……?」

「うん……。御免、一寸、パニックだったって言うか……」

「大丈夫なら、いいんだ」

「……御免な? 甲ちゃん」

ほう……と深い息を付き、九龍は再び立ち上がって、甲太郎は、何処となく青褪めている彼の体を支えつつ、咲重と朱堂を視線で牽制する。

「………………仕方無いわね。ここは退いてあげる。それが阿門様のご意志なのだし。その代わり、葉佩、貴方が彼女を守りなさい。……いいわね? ……じゃ、何れ、あの場所で、ね」

何故、九龍がパニックに陥ったのかは判らなかったが、あんな風になっても尚、時計台へ進もうとする彼の意思に肩を竦め、咲重は引き下がった。

「え、この先に行くの? 時計台って、何だか埃っぽくて黴臭くて、お肌に悪そうって言うか、アタシ──ハァァァァァァ…………プェーーークシッ!」

「茂美ちゃん、何てお約束を……」

「……お前、もう帰れ、朱堂」

彼女がそこより去って行っても、朱堂は居残り、共に行きたそうな素振りを見せたが、盛大過ぎるくしゃみをした彼を、甲太郎が強引に追い返した。

「あん、もうっ! 皆守ちゃんってば、アタシとダーリンの仲を妬いてるのねっ?」

「誰がだっ!!」

「やーね、照れちゃって。ダーリンだけじゃなく、皆守ちゃんにも愛されるなんて、アタシって罪なお・か・ま。いやーーーんっ。──それじゃ、又ね。バイビーー!」

下の踊り場へと蹴り落とされても朱堂はめげることなく、『平等』に、九龍と甲太郎へ投げキッスを送り、猛スピードで階段を駆け下りて行き。

「甲ちゃん…………」

「……何もなかった。何も見なかった。俺達は何も知らないし、何も見てないし、何もされてない」

「…………そーね。何もなかったし、何も見なかったし、何もされてない。うんうん」

「あんな馬鹿のことは忘れようぜ。…………九ちゃん、本当にもう大丈夫なのか?」

「大丈夫。もう平気だよ。脅かして御免な? あ、でも、そのー……」

「ん?」

「時計台入る前に、一遍だけ、ぎゅーーーって、熱い抱擁かまして貰えると嬉しいなー、と」

「何だ、そんなことか」

朱堂の存在そのものを頭から追い出した二人は、九龍のリクエストに従い、暫しその場に佇み、抱き合った。

「……ありがとな、甲ちゃん。じゃ、行ってみましょー」

「…………九ちゃん」

甲太郎の背に廻していた腕を解き、気合いを入れ直して九龍は、時計台の扉に手を掛け。

己へと背を向けた彼を呼び、甲太郎は、何の疑いも持たずに振り返った彼へ、唇を掠めるようなキスをした。

「うおっ! だ、誰か見てたらどうすんだっ!」

「もう、誰もいない」

「いいや、油断ならない! 甲ちゃん、茂美ちゃんを侮っちゃいけないっ!」

「見学したい奴には、見せてやればいいさ。誰がどう足掻いたって、お前は俺のモノだって、思い知ればいい」

「……そーゆーとこ、物凄く情熱的ね、こーたろーさんってば……。何か言う気も失せるよ……」

「そうか、そりゃ良かったな」

「良くないっ! 決して良くないっ! ──あー、もー! 先進むんだってば! 幽花ちゃん奪還作戦中なんだってば! 今度こそ、行くーーーっ!」

黄昏時の校舎で接吻くちづけをされ、九龍は盛大に慌てたが、甲太郎はしれっと、アロマを香らせ始め。

ムカつく……、と呟きながら、九龍は、時計台の扉を半ば蹴り開けた。

白く塗られた、それ程大きくはない扉を開ければ、その先には短い階段があり、辺りに気を配りながら彼等はそこを昇って、最後の扉を開いた。

──『終点』は、小部屋だった。

運ばれて来たのか、それとも元々からの設えなのか、ベッドと、小さなテーブルや椅子があるだけの、寂しい小部屋。

……そこに。

幽花はいた。

「九龍さん──。貴方に、会えそうな気がしていたわ。貴方はきっと、ここへ来ると……」

『六番目の少女』の怪談に登場する幽霊のように、窓辺に立って、外を見ていた彼女は、やって来た九龍と甲太郎を見比べ、笑うでもなく、怒るでもなく、悲しむでもなく、淡々と言って。

僅かだけ、如何なる意味でか、表情を歪めた。