ガタガタとした物音や、誰かと誰かが忙しなく喋る声、と言った喧噪が、隣近所から聞こえて来たような気がした。

が、どうしても、未だもう少し寝ていたい、との欲求に勝てず、ざわめきを拾い上げた意識を宥め、九龍は、傍らの、ラベンダーの匂いのする『塊』にしがみつき、再度、睡魔と仲良くなった。

しかし、それより暫くが経ったら、今度は、静まり返った辺りの気配を意識が拾って来たので、俺は眠いんだー! と、塊に一層深くしがみつき、往生際悪く、遠くなってしまった睡魔を探して、探して………──

「…………うー……。今、なん、時……。………………げっっ!! こ、甲ちゃんっ。甲ちゃんっ! こーたろーーーっ。もう、九時過ぎてるーーーっ! ちぃぃこぉぉくぅぅぅぅぅぅっ!」

何なんだよ、もー……、と枕元の『H.A.N.T』を立ち上げ、現在時刻を確かめた彼は、サー……と顔から血の気を引かせ、悲鳴を上げながら飛び起きた。

「……うるさい…………」

が。

一日の平均睡眠時間は十時間、という日々から遠くなって、夜更かしにも早起きにも慣れて来た、とは言っても、九龍が起こさない限り、何時までも意地汚く寝ていられる甲太郎は、ガバリと起き上がった彼の腰に腕を絡ませ、布団の中に引き摺り込み。

「どうせ遅刻なんだ、諦めろ。どうしても登校したきゃ、午後からにしろ。眠い…………」

抱き枕宜しく、背中から羽交い締めにした九龍の首筋辺りに額を押し付け、ぐぅ、と、わざとらしい息をした。

「えーーー……。ひな先生に怒られるって。明日香ちゃんとかも心配するって。行こうよー、甲ちゃん、今からでも行こうっ。二時限目からなら間に合うっ!」

「い・や・だ」

「じゃあ、先行ってる。甲ちゃんは、午後から来れば?」

「却下」

「……我が儘だなー…………。卒業出来なくなっても、知らないぞ?」

「出席日数が足りなくても、補習や追試受けりゃ何とかなる。少なくとも、お前よりは俺の方が成績はいいぞ」

「くっ……。ほんっとに、あー言えばこー言うな、こんにゃろっ! あー、もー……。そりゃ、俺は似非学生だけどさー。三月までここにいられるんなら、皆と一緒に卒業したいー、とか思ってんのに……。俺まで、出席日数足りなくなったら、どうしてくれんだ……」

己に抱き着きながら、屁理屈ばかりを捏ねる甲太郎の態度に、駄目だ、これは、と諦めを覚え、九龍は仕方無し、やけくそのように、布団を被り直した。

「そうそう。人間、諦めが肝心だ。今度から、そうやって大人しく言うこと聞いとけ」

「じょーだん。甲ちゃんの言うこと大人しく聞いてたら、俺の一生はベッドの中だけで終わる」

「大袈裟な……。一日十時間寝たとしても、残り十四時間もあるだろうが」

「その残り十四時間も、ベッドの中にいたがるのが甲ちゃんだろうっ? 放っといたら、二十四時間寝るっ。甲ちゃんなら楽勝。ベッドの上だけで一生を過ごせるね、甲ちゃんは」

「……そりゃ、その気になれば、俺は一日中だって寝てられるが……、九ちゃん? ベッドってのは、寝る為だけに使うもんじゃないぞ? 今から、証明してやろうか?」

午前の内の登校を諦め、頭から布団を被り直しはしたものの、ブーブーうるさく喋り続ける九龍を、黙らせようとでも思ったのだろう。

彼の言葉尻を拾い上げ、甲太郎は意地悪く、彼の耳許で囁き。

「い、いいっ! 遠慮する! 辞退するっ。そんな証明、要らないからっ!」

もしかして、地雷を踏んだか? と九龍は冷や汗を掻きながら、焦り声を放った。

「遠慮するな。俺とお前の仲だ」

「遠慮じゃないから。これは、遠慮と違うから」

「じゃあ、何だ?」

「へっ? な、何だ? と言われても…………。だ、だってさ。何て言うか、そのー。あー……。…………う、うん! こっ、心の準備が出来てないって言うか! 俺にも、色々と思う処はあるしっ!」

「ほー……。随分、殊勝なことを言うじゃないか。付き合い始めて半月以上も経つってのに、こういう話になる度、ぎゃあぎゃあ喚きやがったくせして。挙げ句、調べ物だー、探索だー、って、毎晩毎晩飛び回って、それが終わった途端、さっさと寝やがって。……まあ、お前と同じ理由で引かなかった俺も悪いんだろうが、引かなかったのはお互い様だ。だってのに、何で急に、妥協めいたこと言い出した? 事と次第によっちゃ、冗談が本気になるぞ? 俺にだってな、我慢や忍耐の限界はある」

「冗談だったんかいっ! そういうの止めろってばっ。甲ちゃんの声はな、その手のことが、一切冗談に聞こえない声なんだぞっ!」

「お前な……。……そーか、判った。じゃあ、事と次第がどうだろうと、冗談を本気にしてやる。覚悟しろ」

自身の言葉通り、甲太郎としては、恋人同士だから言える一寸した冗談のつもりだったのに、やけに焦った九龍は、これまで繰り広げて来た『この手の騒ぎ』の時とは少々違う趣を見せて、憎まれ口まで叩いたので、寝不足で細まった目を一層据え、背中から羽交い締めにしていた九龍の体を、くるっと引っ繰り返した彼は、問答無用とばかりに押し倒した。

「ぎゃーーーーっ!! 待って! 一寸待ってーー! 待てってばっ。早まるな、甲ちゃんっ!」

「嫌だね」

「言うから! 思う処を言うから! ちゃんと白状するから! 先ずは話し合おうっ!」

マウントポジションを取られた、と悟った瞬間、甲太郎のアップが目の前に迫って来て、何とか、彼と己の胸の間にクロスした両腕を挟み込んで、済し崩しのキスを防ぎ、半べそになりながら、九龍は白旗を振った。

「……しょうがない、どうしてもってんなら、聞く『だけ』は聞いてやる」

このまま、実力行使で突き進んだ方が、いっそ自分的には有利なんだが、と思わなくはなかったものの、息すら掛かる距離で、惚れている相手に半べそ顔を作られてしまえば、絆されるというもので。

上乗り姿勢だけはキープし、甲太郎は、耳を貸してやってもいい、との態度を取った。

「うううう…………」

「泣き言が、思う処か?」

「そーじゃないやいっ! そ、そのー、さ。一番最初に言った通り、俺だって男だからさ。甲ちゃんと一緒で、甲ちゃんを抱く気はあっても抱かれる気はない、なんだけど……って言うか、そうだったんだけど……」

「そうだった? 過去形なのか? 気が変わった、とか?」

「気が変わったって言うか……。うーと、何て言えばいいか……。多分、甲ちゃんはあんまりされたくない類いの話だと思うんだけど、さ……」

何処まで保つかは判らないけれど、取り敢えず、話を聞く気にはなったらしいと、甲太郎の顔色を恐る恐る窺いつつ、重い口を九龍は開く。

「いいから言え、とっとと。それとも、やっぱり実力行使の方がいいって──

──違うっ! あーもーっ! …………又、夕べの話、蒸し返すようだけど。俺は、昔の記憶がないじゃん?」

「……ああ」

「でも、そんな俺とは或る意味真逆で、甲ちゃんは、『忘れること』が出来ないっしょ?」

「九ちゃん? お前と俺の両方共が、方向性真逆な記憶障害持ってるってことと、『そういうこと』に、何の関係があるってんだ?」

「……判って貰えない?」

「判らない。判ったら奇跡だ」

「そっかー。そうだよなー……。幾ら甲ちゃんだって、この説明だけじゃ判んないかー……」

だが、開かれた九龍の口は、それでも重く。

彼の言いたいことは、どうしたって甲太郎には上手く伝わらなくて。

仕方無い、と九龍は、深く息を吸って、一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。