「咲重ちゃんっ! 止めろ、ファントムっ!」

「ああっ! 腕が……っ」

「くくくっ……。痛い目に遭うと警告した筈だ。逆らえば、腕がへし折れることになる。我が命令には素直に従った方がいい。葉佩九龍、お前も我に逆らおうなどと思わないことだな」

「判ったから、咲重ちゃんを離せってばっ! そんな風に女の子に暴力振るうなんて、最低だぞっ!」

「だからどうした? そんな次元の話ではないと、判っているだろうに。──もう一度訊く。《鍵》は何処だ?」

「《鍵》? 女子寮の部屋の鍵なら、水着の胸許に──

──ふざけるな!」

「あうっ!」

「我は冗談が嫌いだ……」

咲重を盾に、九龍の抵抗を封じ、腕の骨が折れる寸前まで、彼女を捕らえた手に力籠めたファントムは、全身から、苛立ちの気配を滲ませる。

「くっ……」

「動くんじゃないっ。おかしな香りを嗅がされても困るからな」

「何故、あたしの《力》を……?」

「我が名は《幻影ファントム》。この学園の影に潜み、何時でも、お前達を見ていた」

「ふん、覗き魔って訳? 随分と暗い趣味だこと。……離して頂戴。《鍵》の在処なら喋る気はないわ」

「そうか……。では、死ぬがいい」

だが、どう脅迫してみても、咲重が口を割ることはない、と悟った幻影は、ドン! と捕らえていた彼女の体を突き飛ばすや否や、鋭い爪で斬り付けた。

「うく……体が……っ」

解放された瞬間、咲重も体を捻ったので、爪は、腕の薄皮一枚のみを切り裂いただけ、と九龍には映ったが、彼女はそのまま、ふらりとその場に倒れ込んだ。

「咲重ちゃんっ。しっかりっ」

「くくくっ……。この爪には毒が塗ってある」

「まさか、あたしが毒にやられるなんて……」

「我に従わなかった罰だ。悶え苦しみながら死ぬがいい」

力無く頽れた彼女へ駆け寄る九龍と、苦し気に息を乱す咲重を見下ろしながら、ファントムは高らかに笑い。

「くっ……」

「大丈夫! 毒消し持ってるからっ。一寸だけ我慢して、咲重ちゃんっ」

抱き起こした咲重を励ましながら、九龍は片手で、制服の内側に着込んだ『魔法ポケット』を忙しない手付きで探り、救急キットを引き摺り出す。

「九龍…………」

「貴様……余計なことをっ。何処までも、我に逆らうつもりだな? 逆らったことを後悔するがいいっ」

キットから、消毒剤その他を取り出し、ファントムに妨害の隙さえ与えず、手早く咲重の手当てを終えた九龍へ、忌々し気に幻影は怒鳴った。

「後悔するのはお前だ」

────っ!?」

「やはり、現れたか。学園の影に巣食う《幻影》よ」

……と、プールサイドのコンクリートを、カツリ、と踏む足音が響き、威圧的な声が湧いて。

「お前は…………」

はっ、と面を持ち上げたファントムと、振り返った九龍と、力無く視線を流した咲重の目の前に、阿門が現れた。

「正体を見せて貰おうか」

「動くなっ!! 動けば、この女の命は──

左手を黒いコートのポケットに突っ込んだまま、ひたひたと近寄って来る阿門に、焦りを覚えたのはファントムだった。

幻影は、酷く上ずった声で、表情一つ変えない彼へ、高く怒鳴り。

──持って行け」

が、阿門は淡々と言って、右手に持っていた箱のような物を、ファントムの方へと放り投げた。

「《鍵》は、くれてやる。その代わり、それ以上双樹に手を出すな」

「クククッ。愚かな奴だ。女如きと引き換えに《鍵》を渡すとはな。──これさえ手に入れれば、もう用はない。遂に、古の《封印》が解かれる時が来た。人間共よ。見ているがいい────

《鍵》だ、と、そう言って阿門が投げて寄越した桐箱を、そそくさと拾い上げ、嘲笑を周囲一杯に響かせ、跳躍し、プールのフェンスを越えて、ファントムは闇の向こうへ消え去った。

「《墓》に向かったか……。──双樹を助けてくれたようだな。《生徒会長》として、礼を言わせて貰おう」

行ってしまった──と言うよりは、行かせたファントムを目だけで追って、阿門は九龍へ向き直った。

「どう致しまして。咲重ちゃんだって俺の友達だもん。助けるのは当たり前以前」

「友、か……」

「そうだよ。帝等だって、俺の友達っしょ? 違うとは言わせないかんねー。あー、でも。どうせなら、《生徒会長》として、じゃなくて、帝等自身として、礼は言って欲しかったなー」

抑揚なく礼を告げて来る阿門に、にっこり、無敵笑顔を炸裂させつつ九龍は応える。

「…………葉佩。今日の処は、双樹に免じてお前を見逃してやる。俺と戦うその時までに、精々腕を磨いておけ。では、さらばだ」

浮かべられた九龍の無敵笑顔を、暫し黙って眺め、阿門は徐に視線を逸らすと、横たわったままの咲重に近付き、彼女を抱き上げ、九龍へ背を向けた。

「うん。じゃ、又なーー。咲重ちゃん、お大事にね?」

背を向けた彼と、抱き上げられた彼女に、ひらひら手を振って、九龍も、《幻影》のように、プールサイドのフェンスを乗り越えて行った。

「阿門様……。申し訳ありません……」

「気にすることはない。それよりも、双樹。大丈夫なのか?」

「はい。……でも、《鍵》が…………」

「案ずるな。あれを手に入れた処で、古の《封印》を解けはせん」

「え…………? でも、あの桐箱は……」

「……行くぞ。念の為、厳十朗にも傷の具合を看て貰うといい」

──幻影と、宝探し屋が消えたプールサイドで、大人しく阿門に抱かれながら、咲重は酷くすまなそうに俯くだけだったが、あの『桐箱』一つで、何がどう変わる訳ではない、と阿門は言い切り、彼女を抱いたまま、更衣室の方角へと歩き始めた。

制服の内ポケットから『H.A.N.T』を取り出して、九龍は、歩道を駆けながらメールを打ち始めた。

どうせ、学内から一歩も出られぬ、閉鎖空間の如き学園に潜入するのだから、携帯電話みたいな物は要らないだろう、ロゼッタとの連絡は『H.A.N.T』で取るのだし、と高を括った、九月中旬の己の判断を思い切り悔やみつつ、「こういう時は、電話の方が手っ取り早いのにー!」と声高に叫びながら彼は、甲太郎への、至急メールを何とか送信し終えた。

詳しい事情は後で話すけど、今直ぐあそこに潜らなくちゃならなくなったから、支度宜しく! と書いて送ったそれには、直ぐに、『判った』との返信が来て、多分、甲ちゃんも徹夜の筈なのに、寝てなかったんだ、と意外に思いながら、彼は今度は、もう一人のバディを誰にするか、頭を捻り始めた。

──甲太郎を連れて行かない、という選択肢は、疾っくの昔に九龍の中から消えていて、《墓》に潜る際には、恋人となった彼を引き摺るように出掛けるのがお約束と化しており、甲太郎当人も、それが当たり前、との認識でいるから、甲太郎とやり合い始める確率が低く、且つ、ファントムとの攻防に耐えられそうな相手は、と九龍は、歩道を辿りつつ延々と悩み。

「………………あ、そうだ。ルイ先生呼んじゃおうーっと」

いそいそっと、その日教えられたばかりの瑞麗のアドレスへとメールを打ち、三十分後に墓地の入口で、との約束を交わすと、寮の自室に駆け込み、手早く支度を整えて彼は、寝不足の顔色を隠せなくなって来ている割には、ちゃんと起きて待っていた甲太郎と共に墓地へ向かって、瑞麗とも合流し。

学園に巣食う幻影を追って、《墓》への穴を潜った。