この段になっても、九龍は、ラベンダーの花に囲まれた女性の映り込んだ写真と、甲太郎の『体』との因果関係を、結び付けられずにいた。
一方、甲太郎に、九龍にそれを悟らせるつもりはなかった。
そこに気付いてしまったが最後、彼は戦えなくなると判っていたから。
だから、甲太郎には、最短の時間で勝負に決着を付ける必要があった。
躊躇っている暇は、毛筋程もなかった。
──キスを終え、抱擁を終え、途端、パッと身を離して後退した九龍が、腰のMk.23に腕を伸ばしたのを素早く瞳で捉え、甲太郎は、引き離された距離を一気に詰め、振り上げた爪先で黒い塊を蹴り飛ばし、腰を捻って、宙に掲げた蹴り足を地に戻すことなく、そのまま、踵を『標的』の脇腹に叩き込んだ。
「痛っ……。ちょ……っ、甲ちゃんの蹴りって、様子見の段階でそこまで重たいっての? 卑怯っしょ、それはっ!」
浅い階層を徘徊する化人達程度ならば、一閃で消滅させられる甲太郎の『軽め』の蹴りを右脇腹に喰らい、途端込み上げて来た胃液を無理矢理飲み込んで、咄嗟に手を伸ばした鞭で以て、尚も近付こうとする彼を牽制しつつ、九龍は駆け、弾き飛ばされたMk.23を拾い上げる。
「お前のそれだって、充分卑怯だと思うぞ?」
「いいの! 戦闘ってのは、こーゆー武器でするのが王道ってもんでしょーがっ!」
全身が痺れる程の痛みを誤摩化す為、減らず口を叩きながら、九龍はハンドガンの引き金を引いた。
しかし、確実に照準を合わせて放った弾丸は、呆気無く躱された。
九龍の目には、甲太郎の体は微かにブレただけ、としか映らなかったにも拘らず。
「成、程……。銃弾さえも避けられる動体視力と反射神経と。恐ろしいー、としか言えない蹴りが、甲ちゃんの《力》、と。……うわー、敵に回すと厄介ー……」
「飛び道具じゃないだけマシだろ」
「そりゃそうだけどさー……。っとに……。探索の時に、その本気出してくれてたら、俺は楽出来たんだけどなぁぁぁっ」
「無茶言うな」
「……ご尤も」
減らず口だけは止めず、素早くMk.23を収めると、九龍は肩に担いでいたAUGを構えた。
甲太郎の持つ《力》が、人ならざる身体能力、と知って。
──どれ程の早撃ちが出来たとしても、単射のハンドガンでは、きっと、甲太郎は全弾避け切ってみせるだろう。
だが、ステアー社製AUG A3ならば、5.56mm×45 NATO弾を、連射速度六五〇発/分で吐き出すことが出来る。
即ち、フル装弾数三十発の弾丸を、理論上、2.7秒で『標的』に叩き込むことが叶う。
この銃に、セミ/フルの切り替えセレクターはなく、深くトリガーを引き絞れば自動的にフルオートとなるから、ひたすら引き金を引き続けるだけで、僅か三秒弱の間に三十発。
……尤も、それすら避け切られたら、成す術は余り残されないが、それ以外、活路を見出す方法は、九龍には思い付けなかった。
甲太郎の蹴り足の射程範囲から抜け出し距離を取り、攻撃速度の上で勝らなければ、負けるのは己だ、と。
「痛かったら御免、甲ちゃんっ!」
…………通常、人間は、一発でも弾丸を喰らえば、死に至る可能性を持つ。
けれど、甲太郎は未だに《墓守》の体だと思い込んでしまっている九龍は、後退しつつ、戸惑うことなくトリガーを引いた。
乾いた射出音と共に、三十発の弾丸は瞬く間に放たれ……けれど。
「嘘ぉ…………」
ふっ……と肩を揺らし、僅かな残像だけを残して、再び動きを止めた甲太郎は、何事もなかったかのように立ち尽くしていた。
「一発くらいは、当たったと思ったんだけどなー……」
無駄口を叩く隙にマガジンを入れ替えながら、ブチブチと、狡い、とか何とか九龍は喚き、一発くらいー! と未練がましく叫び。
「残念だったな。お前も本気だろうが、俺だって本気だ。…………それで終いか? 九ちゃん?」
くすりと笑った甲太郎は、余裕の顔で、アロマを銜え直した。
……だが、それは。
彼の演技だった。
銃口を向けた刹那、トリガーを引いた刹那、「甲太郎は、斬ったとて撃ったとて死ぬことはない体」、と確かに思い込んでいる九龍が、一瞬のみ、泣きそうに酷く顔を歪めたのも、彼の瞳は捉えたから。
それを見てしまって、思わず、動きを止め掛けたから。
本当の本気を出せば、擦ることすらない銃弾の雨を一つだけ、甲太郎は避け切れなかった。
一発の銃弾に、左の二の腕を擦られた。
……灼熱で焼かれたような痛みを堪え、表情も声音も取り繕い、負傷した利き腕でアロマを銜え直してみせたのは、滴り始めた血が、指先を伝わらぬようにする為だった。
そうしていれば、服の袖には皺が寄り、被弾の痕は誤摩化せて、滴る血は、黒い制服の肘に溜る。
濃い色の生地が、彼にも確かに流れている赤い血を、九龍から覆い隠してくれる。
「こんなんで、終わりな訳ないっしょ?」
そんな甲太郎の思惑通り、九龍は彼の怪我には気付かず、再び、AUGを構え直し。
「そうか。……なら、この先どうする? 《秘宝》と望みを目の前にした、『新米』宝探し屋? お前に、俺の動きが見切れるか?」
嫌味ったらしく言って、甲太郎は、ふん、と笑みを深めた。
「うるさいやい! 甲ちゃんの苛めっ子っ!」
────引き金は、再び引かれ。
今度こそ、甲太郎は全弾を避け切り。
短いステップの後、石床を蹴った彼は、再度、九龍の懐に飛び込むと、一発目は無意識にしてしまった手加減を取り去った蹴りで、先ず、『標的』の軸足を薙いだ。
……骨の折れる鈍い音を放ちながら崩れて行く体へ、二発目の蹴りも叩き込んだ。
狙った先は、戦いが始まった直後、一発喰らわせた右脇腹。
「くあ……っっ……」
そこを抉り、脚を引けば、聞こえる筈無い、水音に似た、肉と内臓が激しく歪む嫌な音が確かに聞こえ。
「…………終わりだ」
そっと告げながら、床に戻しもしなかった蹴り脚を再び甲太郎は振り上げ、苦し気に身を折った九龍の背へ、渾身、としか言い様の無い蹴りを放ち。
……………………又、骨の折れる音がして。
折れただけでは、蹴りの衝撃を打ち消せなかった肋骨は、肺に刺さった。
「けっ……。かっ……はっ…………っ」
──たった、一、二分の間。
そんな僅かの刻で『決着』は付いてしまい、ダン……、と音立て床に倒れた九龍は、喘ぎつつ、茶色い体液が入り交じった鮮血を吐き出し。
アサルトベストの奥から、『H.A.N.T』が、ハンターの生命の危機を訴え始めた。
『血圧低下。心拍数低下。自発呼吸に異常』
……と。
「九ちゃん…………」
きつく瞼を閉じ、苦しみに悶え、呼吸すらままならなくなった九龍を見下ろし、漸く甲太郎は、アロマに添えていた腕を下ろした。
溜まり続けていた血は、一気に腕を伝い、指先を伝い、ボタボタと、九龍の頬を汚した。
「すまない、九ちゃん…………。痛いよな……。苦しいよな……。……でも……、もう直ぐ、本当に終わるから……」
…………自ら死の淵近くに追い遣った恋人の傍らに膝付き、慎重に抱き抱え、服の袖で乱暴に、吐き出された喀血や、頬に降らせてしまった己の血を、甲太郎は拭った。
そうしてやっても、九龍の口許からは、後から後から、鮮血が溢れた。
けれど……けれど甲太郎は、泣き出す直前の声で、九龍に詫びと『終焉』を告げ、血に濡れた唇に、柔らかなキスを落とすと。
床に横たえ直した恋人へ、手を伸ばした。