墓地を覆う深い森の最奥に駆け込んで、一本の大樹の陰に九龍は踞った。
どうしようもなく、涙が溢れた。
後から後から溢れる涙を止めようがなくて、止めるつもりもなくて、大樹の根元に体を預け、抱えた両膝に強く顔を埋めた。
……もうそろそろ午前零時が近い森の深部は、芯から凍える程に寒く、体は勝手に震えて、心までもが震えた。
遺跡と共に逝こうとした甲太郎が、あの刹那浮かべた優しく穏やかな笑みが、瞼から、脳裏から消え去らなくて、どうしようもなく辛かった。
泣き濡れるしか出来なかった。
好きだと、大好きだと言ってくれたのに、守ってやると言ってくれたのに、甲太郎は、己との未来を選んでくれなかった、繋いでいた筈の手を振り解いた、そんな想いだけに──悲しさと、悔しさだけに満たされて。
九龍は、唯々、泣いた。
「酷いよ……っ。酷いよ、甲ちゃん…………っ」
──玄室で彼に告げたように、九龍は、この三ヶ月、共にいてくれた甲太郎、甲太郎の毎日、甲太郎の全て、甲太郎がくれた想い、その何も彼もを信じている。今でも。
何も彼もが嘘ではなかった。偽りなど欠片も無かった。
けれど、出逢う以前から。
出逢ってからも。
嘘一つない、偽りなど欠片も無い三ヶ月を過ごしても尚、甲太郎の中に、未来は生まれなかったのだと。
初めから諦められていた未来は、彼の中に芽生えなかったのだと、そう思ったら、泣くことしか九龍には出来なかった。
漸く始まったばかりの愛も、手を携えた日々も、甲太郎の中では初めから、終焉が定められていたのだ。
「甲ちゃんなんか、甲ちゃんなんか……っ。甲ちゃんなんか…………っ!」
泣いて泣いて、身も世もなく泣き伏して、甲太郎なんか、と詰りの言葉を告げ掛け……けれど、彼はそれを飲み込む。
……どうしても、その先を、彼には言えなかった。
「………………九ちゃん……」
────甲ちゃんなんか。
……そう言い掛けては言葉を飲み込む、そんなことを彼が繰り返していたら、遺跡の方から、パキリ……と地面に落ちた枯れ枝を踏む音がして、気配が湧き、気配は九龍の名を呼びながら、大樹へと近付いて来た。
「九ちゃん」
耳に馴染み過ぎた、低い、よく通る甘い声は、直ぐ傍らにまで迫り、鼻孔をラベンダーの香りが突いたけれど、九龍は面を伏せたまま、膝を抱える腕に、ぐっと力を籠めて、声と香りの主──甲太郎を無視した。
「その…………。九ちゃん……」
彼が、頑に無視を決め込めば、甲太郎の声音には戸惑いが乗って、声と香りは、もう少しだけ近付き。
「隣に座っても……いいか……?」
拳一つ分程の距離を隔てて、九龍の凭れる根元にしゃがみ込んだ。
「あの、な…………。だから……。……その、何から、どう言えばいいのか…………」
でも、九龍の面が上げられることはなく、よく通る、低くて甘い声には、益々困惑が滲んだ。
「…………甲ちゃんなんか…………」
「俺なんか……何だ……?」
「……甲ちゃんなんか……。甲ちゃんなんか…………っ……」
「………………だから、何だよ……」
「甲ちゃん、なん、か……っ……」
らしからぬ、余りにも辿々しい声に、本当に少しだけ心を動かされ、一切の無視を決め込むことだけは止めた九龍は、抱えた両膝に強く額を押し付け、しゃくり上げながら、又、「甲ちゃんなんか」を繰り返し。
「なあ、九ちゃん……。どうしようもなく虫の良い話なんだが…………、俺の話を、聞いて貰えないか……?」
どうしたらいいのか、本当に判らなかったのだろう。
持て余した間を取り繕うように、『似非パイプ』を銜え、火を点け、一際ラベンダーを香らせながら、ボソボソ、甲太郎は乞うた。
「…………聞くだけなら、聞いてやる……」
「……酷く……長い話だ。それでもいいか……?」
「……………………いい。聞く」
すれば、九龍は漸く、壊れた機械のように、「甲ちゃんなんか」とだけ繰り返すのを止め、ぶっきらぼうな声を絞り。
「有り難うな……」
ホッ……と息を吐き出してから、甲太郎は、本当に本当に長い、『昔話』を始めた。
「笑えるくらい遠い昔のことだが……、母親が生きてた頃は、俺も素直なガキだった。お前は酷く物覚えがいいって、頭がいいのかも知れないって、そんな風に周りから褒められるのが単純に嬉しかった。……俺が、一番憶えるのが得意だったのは、他人の会話だった。テレビの中で喋ってる連中のやり取りや、両親のやり取りや、小耳に挟んだ『人の言葉』を、俺は直ぐに覚えることが出来て、忘れることもなかった。覚えた『人の言葉』を、一言一句間違わずに父親や母親に言って聞かせて、褒めて貰うのが楽しかった。…………でも、あの頃の俺は、未だ、三つのガキだったから。知らず覚えちまう『人の言葉』に、どんな意味があるのかまでは判らなかった。意味も解らず、単なる猿真似をしてただけだったんだ。……褒めて欲しくて……母親に頭を撫でて欲しくて、たまたま遊びに連れて行って貰った父親の病院で盗み聞きした、父親と若い看護婦がしてた会話を母親の前で真似しちまって。それが切っ掛けで、父親の不倫が母親にバレた。……医者なんかやってるくせに……いや、医者なんかやってるからか、父親は、幾人もの看護婦と不倫を重ねてたらしくて、俺の猿真似の所為でそれを知っちまった母親は、何を思ったんだか、『報復』した。あの女の、当て付けのような『報復』は直ぐ父親に知れて、それから暫く、家の中は酷いもんだった。毎日、両親の怒鳴り合う声が聞こえて、二人共、こんなことになったのはお前の所為だと、俺に当たって来た」
「………………そんなの、甲ちゃんの所為じゃない」
ぽつりぽつりと続く、甲太郎の昔話に、ぽつっと、九龍は言葉を挟んだ。
「……かもな…………。でも、二人にとっては俺の所為だった。夫婦の修羅場って奴は酷くなる一方で、二人共、俺を毛嫌いするようになって、そうこうする内。俺が、四つになった頃。母親が、首を吊った」
「……え………………?」
──母が、自殺した、と。
始まった『昔話』の途中、そう彼が告げた時、面こそ上げなかったものの、九龍の肩は強く揺れた。
「言葉通りだ。あの女は、首を吊って死んだんだ。……それには流石に、あの男も堪えたらしくてな。挙げ句、不倫ばかりをしていたくせに、本妻も手放すつもりはなかったようで、『矛先』は俺に向いた。お前がそんな質でさえなかったら、あの女は死なずに済んだ、と。…………そんなことがあって、葬式も済んで暫くがして。家に、家政婦が出入りするようになった。前にも話した通り、どの家政婦も長くは続かなかった。皆、俺には不思議そうに接して来た。何故だか判らなかった。父親にも。俺は直接聞いてないから、連中とあの男の間にどんな話があったのかは知らないが、聞かされた話に思う処でもあったんだろう。大学病院に連れて行かれて、検査を受けてみたら、藪医者共が、俺は、『忘れること』を忘れて産まれて来ていると、そんな宣告をしやがった。先天性の、記憶異常だと。自分にとって、全く不必要な情報だったとしても、覚えてしまったことを、俺は、忘れられないんだと。…………そんな検査結果が出た日。あの男が俺に言ったことは、『化け物』、だった」
……自分の方を見ようともしないけれど、泣き濡れ続けているけれど、それでも九龍は、長い長い昔話を、確かに聞いてくれている、と。
儚く見える笑みを浮かべながら、甲太郎は喋り続けた。