「……甲ちゃん…………」
「その頃でも、未だ俺は、小学校に通うようになったばかりだった。『忘れること』を忘れて産まれ落ちたってことの、覚えたことを忘られないってことの、何が悪いのか理解出来なかった。……だが…………歳と共に、俺にも解るようになった。何気無く言った一言を、何気無く聞いちまった相手が、決して忘れてくれないってのは……嫌なことなんだろうと俺も思う。便利なこともあったけれど、人付き合いの上では、この質の所為で嫌な思いしかしなかった。十にもならないガキ共の中にも、大人達の中にも、裏表だけがあるのが際立って見えて、他人の矛盾ばかりが目に映った。そんなことばかりで頭の中が埋め尽くされて、嫌で嫌で堪らなかった。見たくない物ばかり見たし、聞きたくないことばかり聞いた。忘れられないのに。……その内、ほとほと嫌気が差して、俺は、他人と関わるのを止めようと、そう決めた。そうやって思い定めるまでには、嫌って程荒れたし、悪さに逃げたこともあったし、喧嘩三昧の毎日を送ってみたりもしたが……、何をやってみても、世界も、他人も、酷く乾いたままだったから。俺の世界は何一つも変わらなくて、毎日毎日、溢れんばかりのことに埋め尽くされて、一杯一杯で………………」
ラベンダーを強く香らせながら、少しばかり上向いて、甲太郎はそこで、息を飲み込み。
「甲ちゃん…………?」
九龍は、やっと。伏せていた面を持ち上げた。
「…………毎日が、そんなこんなで。あの男は厄介払いがしたくて、俺はあの男と暮したくなくて、新宿生まれの新宿育ちだってのに、ここに入学することになった。世間体って奴もあるから、金だけは、あの男も惜しみなく俺に寄越したしな。そうして……、全寮制だから、それだけでここに来て……、俺は、阿門に出会った。一年の時、同じクラスだったんだ。……理事長の息子で、入学直後から生徒会長になったあいつは、酷く浮いてた。そんなこと、気にするようなタマじゃないがな、あいつは。でも……俺は、あいつのことが気になった。どうしようもなく。俺と、同じような瞳をしてる気がして。……あいつもあいつで、俺のことが気になってたらしくて、一年の四月が終わる頃、何の前触れもなく、俺は、あいつに呼び出された。深夜の墓地に。寮を抜け出して向かったここで、俺は、《墓》のことと《墓守》のことを聞かされた。詳しいことは一つも語られなかったが、《墓》に眠るモノを守り、掟に殉じて、《墓》を侵す者を排除する、それが《墓守》だと教えられて、一も二もなく、俺は頷いた。《墓守》になると」
「……何で…………?」
「……………居場所が出来ると思ったんだ。居場所も、死に場所も、やっと得られると思ったんだ……。それまで、俺の居場所は何処にもなかった。どうしたらいいのか判らなかった。毎日が嫌で、毎日望まない何かに満たされ続けて、未来なんか見えなくて、持って生まれたモノの所為だと、運命なんだと、明日すら、何時しか諦めてたから。《墓守》になれば、居場所が得られて、死に場所も得られて、決して裏切れない《掟》で結ばれる相手も出来る。そう思ったんだ……。それに……《墓守》の運命
遠い昔を語り。
《墓守》になった『その日』を語り。
不意に、甲太郎は声を歪め、俯き、真っ暗な地面へと視線を落とした。
「…………何? 甲ちゃん……」
「俺は、望んで《墓守》になった。あの場所に、俺は望んで辿り着いた。これが俺の使命だと、与えられた任だと、《墓》を守る為に多くの者を傷付けて、あの墓地に眠らせて来た。どうせ、相手は宝目当ての墓荒らし、そうなったって自業自得だって、そうも思った。だが……それでも、俺の中には何も生まれなかった。世界も、他人も、酷く乾いたままで、明日も、希望も、何も見えては来なかった。喉の奥に、唯、乾いた砂漠のような寂寞たる後味が残っただけだった……。どうして、毎日が変わらないのか判らなかった……。秘密裏に使命を果たす、生徒会役員以外は誰もその正体を知らない副会長にまでなったのに、余りにも毎日が変わらなさ過ぎて、しょっちゅう、他の生徒とトラブルばかり起こした。遅刻、早退、無断欠席の常習犯で、教師達にも、クラスメートにも、怖れられて、煙たがられた。それまで俺が過ごして来た十数年と、何にも変わりゃしなかった……。……その内、変わらないことだけが平穏なんだって、思い始めた……。少なくともこうしていれば、居場所も死に場所もあるんだから、と……」
「…………そっか……」
「……ああ。──それから半年近くが過ぎて。二学期になった時、女性教師が着任した。あの女は、俺達のクラスの新しい担任になった。丁度、雛川のように。性格も雛川によく似てて、一言で言えば教育熱心な女だった。素行不良で、同級生達とも先輩達ともトラブルばかりを起こしてる俺を追い掛け回して説教して、授業に引き摺り出そうとした。俺も散々逃げ回ったんだが……、あの頃の俺の昼寝の定位置は温室で、あの女は酷く草木が好きで、だから……」
「先生に、捕まるようになった…………?」
中々にして凄まじいと思えた、甲太郎の幼少時代の話に、何時しか涙は引っ込み、スン……、と鼻を鳴らしながら九龍は甲太郎を見上げた。
「……嫌、だったら……温室で昼寝するのを止めれば良かったのに、そんな気にもなれなくて……。…………構われるのを、心の何処かで、嬉しいと思っていたのかも知れない……。乾いた砂漠のような、何も彼も見透かすような嫌な目をしてると大人達に言われ続けた俺の前に立っても、あの女が怯まなかったから、期待……したのかも知れない……。俺の退学が、教師達の間で半ば決まり掛けた時も、自分が俺を預かると言い出して、俺を守ると言って……。だから…………。でも俺は、あの女の言葉を、誰もが一度は言うことだとしか受け取らなかった。教師は、皆同じことを言うと。後少しでも俺に踏み込めば、あの女も、俺に背を向けるって思ってた。全ての大人達がそうだったみたいに。何を言ってみた処で、俺を、この学園を変えられはしないとも思ったし、《生徒会副会長》を、教師共に退学させられる訳がないから、俺を守るなんて、独りよがりの勝手な科白だと鼻で笑ってた。でもな……でも…………」
「うん……。でも…………?」
「何が切っ掛けだったのかは知らないが、あの女は、墓地に踏み込むようになった。やがて……墓地の下に《墓》があることをも知って……。丁度……丁度、二年前の今頃。真夜中に。俺は、温室にあの女を呼び出した。《墓》の秘密を知った者は、排除しなくてはならないから。それが《掟》だから。あの女は宝探し屋じゃなかったが、そうするしかないと思って……《墓》で眠りに付かせようと────。そうしたら……あの女は、彼女は……、こんなことで、俺の手を汚させる訳にはいかないと……、これからは、自分が俺を守ると言ったと、そう言って……っ。こんなことは、自分で最後にしろと……花鋏で、自分で自分の胸を…………──」
「甲ちゃん。甲ちゃん…………っ……」
語る声は、少しずつ掠れて行き、辿々しくもなって、九龍は思わず甲太郎へと腕を伸ばし、膝上に投げ出されていた手を取った。
「……ラベンダーの香りのする人だった……。何時でも、あの花の香りを纏ってた……。花を育てるのが好きで、温室で、何時も、ラベンダーの世話を焼いてた……。一度だけ、乞われて……写真を撮った。季節外れに咲いた、一面のラベンダーの中に立つ彼女の写真。使い捨てカメラだったのに、何故か上手くピントが合わなくて、現像された写真の中の彼女の顔は掠れていたが……、あの女は、それを俺にくれて…………」
「甲ちゃ──」
「──馬鹿な女だと思ったんだ…………。死んでどうなるって言うんだ、と。俺を変えることは誰にも出来ない。俺の人生は、俺が決める。あの女如きに、俺を救い出せる訳がない。これからだって、俺は《生徒会》としての法を執行し続ける。…………そうも、思ったのに…………っ。あの女が死んでから、息も出来ないくらい胸が痛くて……っっ。……好きだった訳じゃない……。愛してた訳でもない……。好きになる前に、愛する前に、あの女は俺の前から消えた。自分自身で。俺の所為で…………っ! 胸を裂いて、首を吊った母親のように、俺の所為で……っ!!」
手を取ってくれた、九龍の手を握り返し。
甲太郎は涙を溢れさせ、喉の奥から、悲痛な声を迸らせた。