「甲ちゃん……。甲ちゃん…………っ」

握った手に、一層の力を籠めて、九龍は、泣き濡れ始めた甲太郎の背を撫でた。

「だから…………」

「……甲ちゃん?」

「だから……、俺は阿門に、写真を預けたんだ……。お前が持ってるあの写真……。忘れたかった。忘れちまいたかった。あの女の何も彼も……っ。阿門は、《墓守》として俺を遺跡に縛るモノを差し出せとは言わなかったのに、信頼のみで俺に《力》を与えたのに、俺は、《墓守》の定めと阿門の《力》に縋った……。なのにあいつは、何かが俺の中に影を落としているなら、暫く任から離れろと、俺を自由にしてくれた。貸しを……作っちまった……。せめてと、腑抜けてた俺にも出来ることはしたがな……。……なのに、結局。結局俺は、何一つも忘れられなかった。《墓守》の定めと阿門の《力》に縋っても、どんなことも色褪せなかった……っ。あの女のことも、これまでの十数年も、何一つも……っっ。俺は、持って産まれた質と《墓》に、捕われ過ぎちまってた……。夢も見られない程に……」

「甲ちゃん。もういいんだよ、甲ちゃん……っ」

「どんなに寝ても、眠りの中に逃げても、俺は夢一つ見られなかった。後から後から溢れる現実と、忘れられない記憶ばかりに満たされて、夢すら俺にはそっぽを向いた。十数年、一度も夢なんか見なかった。あの女が俺の所為で死んでも、俺は夢を見なかった。悪夢に魘された方が未だマシだったのに。後悔してるんだって、思い知らされたかったのに。……色褪せそうになることを、色褪せまいと、足掻かせる夢が見たかった。時の流れが何時かは俺から記憶を奪うから、それをさせまいと夢を見るんだ、そんな期待を持ちたかった。足掻かなくても何一つ忘れない、なんて現実なんか要らなかった……っ。何もしなくても溢れて行く現実も想い出も、もう御免だったのに、夢が見られるくらいの、細やかな『空白』も、俺にはなくて…………っ。だから……忘れられないなら……夢を見る程度の忘却さえ俺には赦されないなら、いっそ常に傍らに置こうと、そう開き直って…………」

「……アロマ、銜え始めたんだ……?」

「………………ああ……。こうする以外に……俺の犯した罪の置き場所が見付からなかったから……。他に……どうしたらいいのか判らなかったから……。持て余したんだ……。自分が犯した罪なのに…………」

背を滑る、優しい手から逃れるように、甲太郎は叫んで叫んで、九龍の右手を、両手で掴み直した。

アロマを大地へと捨てて。

「あれから、二年が経った……。俺の前にお前がやって来た……。秋の日の午後に……。全てのモノに対する興味を失って久しかったのに、九ちゃん、お前は『強烈』過ぎた。お前の両の瞳は、どうしようもなく澄んでいて、全てを求める風な光を宿してた。今でも、それは変わらない……。何も彼も受け取ってくれるように。全てを受け止めてくれるように。お前の瞳は……。…………ずっと……ずっとずっと、本当はずっと、欲しいと思ってたんだ……。何一つも忘れられない俺の中に溢れるモノを、そうと知っても受け止めれてくれる相手が俺は欲しかった。何時か誰かが俺を受け止めてくれるって、そんな、奇跡みたいなモノを求めてた。有り得ない者を求めてた……」

「俺、は……。甲ちゃん、俺は…………」

「そんな者に、お前はなってくれるんじゃないか、って……期待した……。お前が《転校生》だと知っても、俺はお前を諦められなかった。お前が……お前こそが欲しかったんだ……っ。諦められなかった……っっ。……お前を諦めることを諦めたら、お前も俺を求めてくれた。忘れることを忘れて産まれ落ちた俺の質を、お前は確かに受け止めてくれた。お前が傍にいてくれれば夢さえも見られた。十数年、一度も見なかった夢まで。安らかで……幸せだった……。でも……でもな、九ちゃん……。どんなにお前を想っても、俺は《墓守》だった……。俺は、犯して来た罪ばかりに塗れてた。唯一、その罪を償える方法は、お前を守り通して、遺跡と共に逝くことだと思った。それが、あの時の俺の覚悟だった。……今なら、馬鹿だったと思える。愚かだったと思える……。あの時は……それだけが俺の真実だったけれど……今なら。……死んだ処で何の解決にもなりはしない。残された者は、その記憶を一生背負い、心に打ち込まれた楔に苦しみ続けなければならない。それは……俺自身が一番よく知っていた筈なのに。…………許してくれ、九ちゃん…………っ」

両手で握り締めた、乾いた血がこびり付いたままの九龍の手を、甲太郎は額に押し当て、祈るように乞うた。

「…………あのさ、甲ちゃん」

「何だよ……」

「答える前に。俺の話も聞いてくんない……? 甲ちゃんの昔話に負けず劣らず長い話だけど。甲ちゃんに、聞いて欲しいんだ……」

「……ああ。幾らでも。幾らだって聞いてやる……」

「ありがと……」

甲太郎のそれに答えを出す前に、今度は自分の話を聞いて欲しい、と九龍は囁き、深く俯かせていた顔を上げた甲太郎の、涙溢れ続けている瞳を見詰めながら、静かに話し出した。

「俺……昔のこと覚えてないって言ったろう? でも……たった一つだけ、憶えてることがあるんだ。何処だかも判らない、真っ暗な中にいて。沢山の……顔も見えない誰か達と一緒にいて、ひたすら響く、呻き声だけを聞いてたのを憶えてる。死にたくない……死にたくない……って、延々繰り返される声を、ずうっとずうっと聞いてたことだけ、憶えてるんだ……。……それだけが、俺の中に遺ってる、昔の俺のたった一つの想い出……。────前に話した、俺を拾ってくれたロゼッタの宝探し屋は、カイロの自分の家に俺を置いてはくれたけど、金で解決出来ること以外の面倒は見てくれなかった。滅多なことじゃ顔も出さなかった。広いお屋敷の中で、俺は何時も独りぼっちだった。通いの家政婦さんはいたけど、言葉通じないから話すことも出来なくて、彼女が出してくれる三度の食事を、黙々と食べるだけで。せめて、少しでも故郷のことが思い出せたらって、ネットで取り寄せた日本の本、片っ端から読んだ。百科事典も読破したよ。漫画も、小説も沢山読んで、アニメもドラマも見た。……そういうことしか、することがなかったんだ……。『俺』が俺になってからの一年半、毎日そうしてた。…………寂しかった。寂しくて堪らなかった。誰かと話がしたかった。色んなことを教えて欲しかった。俺が誰なのか知りたかった。でも……頑張ってアラビア語覚えても、願ったことの一つも叶わなかった……」

「そう、か…………」

「うん……。だから、あの宝探し屋に、ロゼッタのハンターになるくらいしか、俺に出来ることはないって言われた時、は? って正直思ったけど……、それに乗っかることにしたんだ。何処かにひっそりと眠る《秘宝》を探し出すのが、宝探し屋の仕事だから。世界を飛び回っていれば、《秘宝》を探し続けていれば、何時か、俺の《秘宝》も──誰も教えてくれない『俺』も、見付けられるんじゃないか、って思った。『俺』が見付からなかったとしても、もう一つの《秘宝》は見付かるんじゃないかとも思ったんだ。何にもない……名前すら自分で適当に決めた、空っぽな俺を、沢山のことで満たしてくれる人って《秘宝》が……。……年相応の友達も欲しかった。以前の俺にはあっただろう、『日常』が欲しかった。龍麻さんと京一さんと知り合った後は、あの二人みたいな、心底互いのこと信じ合って笑い合える、唯一の親友や相棒も欲しい、なんて思ったっけ……。…………だから、あの日……」

「……ん?」

「甲ちゃんに巡り逢ったあの日。一目見た時から、甲ちゃんの瞳に釘付けだった。甲ちゃんの瞳の光は鋭くて、何一つも見逃さないって言ってる風だった。見遣った全てを、刻み込める風だった。……だから俺も……あの日、甲ちゃんが欲しいと思ったよ……。甲ちゃんこそが、心底の願いを叶えてくれる人になってくれるかも知れないって。空っぽな俺の中を、沢山のことで満たしてくれる人かも知れない。何一つも見逃さないで、刻み込んだ見遣った全てを、俺に分けてくれる人だ、って……。……欲しいと思って……心底の願いを叶えてくれる人が欲しいと思って、世界を巡る為に始めた宝探し屋だけど、まさか、初めての潜入探索で、いきなり甲ちゃんみたいな人に巡り逢えるなんて思ってなくって、でも、俺は甲ちゃんに巡り逢えた。…………だから、俺……何も彼もが、申し訳なくなっちゃったんだ……。遺跡の奥に進む度、救われたとか、解放されたとか、皆に言われることが、凄く申し訳なかった。後ろめたかった……。皆のその言葉が、本当は負い目だった……」

掬い上げた手に頬を寄せながら話に耳を傾けてくれる甲太郎を見詰め、九龍は、又、泣きそうに、くしゃりと顔を歪めた。