十日 月曜日 早朝。
日の出前。
未だ仲間達は、寮の自室にて、夢の中にいるだろう時刻。
大して大きくもない鞄に詰められるだけの私物を持って、天香学園の制服の上に厚いコートを着込み、マフラーや手袋で完全防備をした着膨れ姿で、九龍は、学園の正門前に立った。
「残りの荷物は?」
「もう、亀急便に頼んだ」
「そうか。……気を付けてな」
「…………うん」
薄らと……本当に薄らと、東を覆う、空と『都会』との境界線が、夜明け寸前の数瞬だけ窺えるラベンダー色に染まる中、甲太郎だけに見送られ、彼は、『別天地』へと踏み出そうとしていた。
「出来るようなら電話するから。メールもする。心して受け取ってくんなきゃ駄目だかんな。甲ちゃんが黙ってろって言ったから、ホントに未だ、携帯の番号もアドレスも、甲ちゃんしか知らないんだぞ」
「……お前、それを、俺以外に言い触らすつもりがある、とでも?」
「………………すいません。御免なさい。……あ、でも、兄さん達には伝えといてくれると嬉しいな」
「ああ、あの二人なら、まあ……」
「つー訳で、伝言宜しく! 本当は、兄さん達には、ちゃんとお別れ言った方が良かったんだろうって思うんだけど、行きそびれちゃってさ……。……色々、これでもかっ! ってくらいお世話になっといて、薄情かな……。でも、改まって報告に行くと、何かさ、湿っぽくなっちゃいそうでさ……」
「そうだな。お前、二人には本気で懐いてるから」
「甲ちゃんだって、懐いてるくせに。知ってるんだからなー。……龍麻さんも京一さんも、本当に、本当の兄さんみたいに俺には思えてて……、もしかしたら、もう、二人には会えないかも知れないけど…………」
「馬鹿言ってんな。ちゃんと、番号もアドレスも、あの二人に『だけは』伝えといてやる。連絡なんか、取ろうと思えば何時だって取れるし、お前が戻って来るより先に、二人がここを出て行くなら、行き先くらいは聞き出しといてやるから」
「うん……」
何とか明るい雰囲気を保ったまま、『暫しの別れ』の始まりを向かえようと九龍は努力を続けたけれど、どうしても、二人を包む空気は、重たく、そして湿っぽいそれになって。
「一寸出来が悪くて世話が焼ける、兄さん達だと思ってるんだろう? ……お前が、二人のことをそう思ってるなら。二人も、お前にとっては『家族』に等しいなら。縁は、生涯切れないだろう? 必ず、又会えるだろう? 『家族』なんだから」
「そ、だね……。……うん、そうだ! 甲ちゃんの言う通りだっ! 絶対、会えるしっ! ──って、あ、そうだ、甲ちゃん…………」
どうしても別れを告げに行けなかった、懐き続けた兄さん達に対する甲太郎の言葉に、思わずベソを掻きながら空元気を絞った九龍は、グスン……と鼻を啜りつつ、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「ん?」
「あの、これ…………」
「お前、それは……」
ゴソゴソと探られたポケットから、躊躇うように九龍が取り出したのは、イヴの夜、墓地の森の片隅で、甲太郎が投げ捨てた『似非パイプ』だった。
「あの時、こっそり拾ったんだ。その……本当は、その……、妬きもちの対象になっちゃうから、捨てられたままにしといてもって思ったんだけどっ。例の先生のことは、何も彼も、全部全部、過去のことにしちゃって欲しいんだけどっっ。でも……、やっぱり、こう……何つーか。甲ちゃんは、ラベンダー臭いのが甲ちゃんかな、とか、似非パイプ銜えてる甲ちゃんは格好良いって心秘かに思ってたって言うか、この、感受性豊かで繊細な葉佩九龍君の複雑怪奇な心境を、どうやって表現したらいいのかよく判んないんだけど、俺がここに転校して来た日の、甲ちゃんに初めて逢ったあの時の、甲ちゃんの瞳
「………………落ち着け、九ちゃん」
返したいような、返したくないような、如何とも例え難い複雑な心境をありありと伝えて来る、震える指先が差し出して来た似非パイプをそっと受け取り、言い訳と言うか、当人の主張通り複雑怪奇な想いを言い連ねる九龍を、甲太郎は一言で黙らせた。
「おっ、俺は、落ち着いてらい……っ」
「それの何処が落ち着いてんだよ。…………取り敢えずは、受け取っとく。もう一度、これを手にすることがあるなんて、思ってなかったが……。……そう、だな…………。俺も、お前が帰って来るまでに、『これ』をどうするか、決めとくさ」
「……うん」
掌にパイプを握り込み、思い掛けず戻って来たこれをどうするかは、この先の二ヶ月で決める、と言った甲太郎に、九龍は微かに頷き。
「時間、だから…………」
名残りを惜しみつつ、甲太郎を見上げたまま、一歩、後ろへと下がった。
「──三月、十一日」
「ほ?」
「丁度二ヶ月後。三月十一日。その日が、ここの、今年度の卒業式だ。……忘れるなよ」
少しずつ遠退いて行こうとする体を咄嗟に掴んで、甲太郎は、言い聞かせる風に告げた。
「忘れる訳ないだろ。絶対に、忘れたりなんかするもんか」
「そうだな…………」
「…………じゃあ、甲ちゃん……」
「……ああ」
「葉佩九龍、単身赴任に行って来ます!」
「……馬鹿。──行って来い」
────惜しむしかない名残り、本当は離れたくない、との本音。
それが、暫しの間、九龍の二の腕を掴んだ甲太郎と、甲太郎に掴まれた九龍とを繋いでいたけれど。
思わずの接吻
彼等を繋いでいたそれも、やがて静かに離れ、歩き出した九龍は、振り返り、振り返り、としながら新宿の雑踏へと続く朝靄の中へと消え、甲太郎は、学園を包む朝靄の中に一人佇んだ。
「…………行ったか」
九龍の姿が消えるまで、微動だにせず見送っていた甲太郎の隣に、そっと、気配が近付いて来た。
「ああ。行っちまった……」
気配は、友──阿門の物で、彼を見遣りもせず、ぽつり、甲太郎は答える。
「寂しく……なるな」
「そんな、辛気臭いこと言うなよ。卒業までには戻って来る。必ずな。あいつのことだ、どうせ、ケロッとした顔して──」
「──葉佩が、ここに戻って来るつもりがあるだろうことくらい、俺にも判る。皆守、お前をここに残して行ったのだから」
「……阿門?」
残念そうに、寂しくなると呟いた友に、『確かな未来の真実』を言ってやったら、くすり、と忍び笑われ、思わず甲太郎は、阿門へと視線を移した。
「だから……、寂しいのは、お前だろう?」
「阿門…………。お前、何時からそんな、質の悪い冗談を言うようになったんだよ」
「冗談を言っているつもりはない。そもそも俺は、冗談などを気軽に言える質でもない。俺は事実を告げているだけだ。愛する者との別離は、暫しの間でしかないとしても、辛いものだろう?」
「…………お前……、本気で質が悪い……。俺の友人なんかやってるだけのことはあるぜ」
けれど、若干瞳を見開いた甲太郎に見詰められても、阿門は薄く微笑んでみせるのみで、悪態を吐いた甲太郎は、ガリっと髪を掻き上げ、空を見上げた。
──薄らと東の空の境界線を覆っていた、夜明け寸前の数瞬だけ窺えるラベンダー色は、もうすっかり、『晴れて』いた。