「甲ちゃん、トイレ行こ、トイレ!」
「別に俺は行きたくない。便所くらい一人で行け」
「つれないこと言わない。ほれほれ。──二人共、一寸待っててー」
羽田空港の、国内線出発ロビーにて。
本物の女子高生二人を待たせ、男子高校生なのに、花の女子高校生宜しく、渋る甲太郎の腕を引きつつ九龍は、「いざ行かん! 肩を並べての生理現象!」とその場を離れた。
……が、彼が向かったのは、北ウィングの隅の方にある喫煙所の、人目に付かない物陰で。
「九ちゃん? 何だよ、こんな所で」
連れ込まれた甲太郎は、ふん? とポケットに両手を突っ込んだまま首を傾げた。
「いや、そのさあ……。ふと、もう直ぐ十四日だよな、とか思ってさ」
「それが、どうかしたか?」
「うっと……。有り合わせっぽくって、一寸気が引けるんだけど……。挙げ句、三日も早いんだけど。……甲ちゃん、これ」
不思議そうな顔を作った彼に、九龍は上目遣いをして、少々、モジモジともして、漁った荷物の中から、小さめの、紫の包装紙やリボンでラッピングされた箱を取り出し、手渡した。
「何だ?」
「だから。日本では、二月十四日にはメジャーな物」
「ああ……。……って、お前、これどうしたんだ?」
贈られたのは、所謂バレンタインのチョコレートだと知って、大人しく受け取りながらも、甲太郎は目を瞬く。
「上田駅で見っけて買った。それこそ、旅の恥は掻き捨てで、二度と行かないかも知れない所でだったら、男の俺がバレンタインチョコ買ったって恥ずかしくないー! とか思ってさ。まあ、それ売ってた店の店員さんの、素朴な感じのおばちゃんに、何だっ!? って顔されたんで、じゅーぶん恥ずかしかったけどー……」
「……そうか」
「そうだよ……。……又、暫く甲ちゃんと離れ離れだしっ。バレンタイン近いしっ。恋人同士の行事みたいなこと、俺だってやってみたかったんだいっ!」
「判ったから喚くな。………………有り難うな」
「う、うん……。……うっわ、恥ずかしい! 心底恥ずかしい! しっかりしろ、俺ぇぇぇぇっ!!」
若干目を見開いて、箱を受け取った体勢のまま、じーーー……っと贈られたそれを見詰める甲太郎に、ごにょごにょ、理由と言い訳を捲し立てたら、うるさい、と言わんばかりの渋い顔をされ、が、直ぐに、柔らかく笑んだ彼に有り難うと囁かれて、九龍は、顔を真っ赤にしつつジタバタ暴れ始めた。
「だから、うるさい。──そんなこと、思い付きもしなかったから、俺からくれてやれる物はないが……」
だから又、甲太郎が浮かべた柔らかい笑みは渋面に戻って、その、怒っているような呆れているような面のまま、彼は、ぐいっと九龍の腕を掴み引き寄せると、接吻を贈った。
「ば、馬鹿っ! 甲ちゃんっ。こんなとこでっっ!」
「誰も見てない。見られてた処でどうってことない。旅立ちの場所に、名残りを惜しむ恋人同士の一コマは付きものだ。──九ちゃん。来月、ちゃんと、お前曰くの恋人同士の行事に則って、この礼は返してやる」
ひぇぇぇぇ! と情けなー……い悲鳴を上げ、バッと恋人の前から飛び退り、首まで真っ赤に染めて九龍は、ぎゃいのぎゃいの騒いだけれど、正々堂々とした顔、正々堂々とした態度で、甲太郎は受け答えた。
「……何なんだろう。甲ちゃんの、その謎な肝っ玉の太さは、何処から来るんだろう……。世間の平均よりも、繊細さんのくせに……」
いけしゃあしゃあ、としか言い様の無い態度と科白に、九龍はがっくり項垂れ……けれど。
「────甲ちゃん。一ヶ月後までには、ちゃんと帰って来るからな」
ふんっ! と恥ずかしさを振り切った彼は、にぱらっ、と笑んだ。
「遅刻なんかしたら、折檻が待ってると思え」
「過激ですな、こーたろさん。折檻かい」
「それ以上がいいのか?」
「……どーしてそうなるんだよ…………。──まあ、いいや。絶対に、何が遭っても間に合わせるから、そんなことにはならないしー。……さ、行こ、甲ちゃん。明日香ちゃん達待ってるし。そろそろ、時間切れだしさ」
「………………そうだな」
そうして、彼は、時間だ、と呟き、甲太郎は頷いて、二人は、少女達の待つ場所へと戻った。
────一月前の別れの朝、九龍は、今にも泣き出しそうな顔をしていたけれど、その別れの夜は、それでも、別れるが別れるまで、頬に笑みを貼付けていた。
あの朝は、やはり情けない顔をしていた甲太郎も、その夜は、それなりの顔をしていた。
別れは穏やかで、幾度となく誓い合った再会は又誓われて、愛している、愛されている、との想いは確かに彼等を繋いでいた。
………………でも。
笑みを浮かべる九龍の瞳は、ローカル線の車窓越し、あの山を見据えていた時のように、何かを睨み付ける風に何処か遠くを彷徨っていて。
だから、この一日弱の間に膨れ上がった、碌でもない不安な想いを、甲太郎は拭い去ることが叶わぬままになった。
だのに、彼等は余儀無くされた、再びの別れを迎えてしまった後だったから。
又、三十回の昼と夜を、越えなくてはならないから。
少なくとも甲太郎とっては、卒業式までの一ヶ月間は、絶望的と言えるまでに長く感じられる日々でしかなく。