三月十一日 金曜。
平成十六年度 天香学園高等学校 卒業式、当日。
その日、東京都二十三区内は晴天に恵まれ、雲一つない青空が広がった。
来年度からはその辺りも変わるだろうが、これまで、この学園内に生徒の父兄が足踏み入れられる機会は、入学式と卒業式しかなく、その二日間だけは、外界から閉ざされた陸の孤島の如き、牢獄のような──既に、だった、と言うべきだろう──学園も、ありふれた学び舎の顔を見せる。
その日も、暖かい、春らしい陽気の中、午前九時より講堂入口で始まった来場者の受付はごった返していて、正門前でも校舎前でも中庭でも、記念撮影をする生徒とその父兄の姿が見られた。
卒業生は固より、在校生達も、ふわふわと落ち着かない足取りで学内を行き来し、教師達は一様に、忙しそうにしていた。
壇上その他が花で飾られた、卒業式会場となる講堂は、入口手前から既に華やかさを醸し出していて、式次第では、十時半よりの開始とされている式を待ち侘びているようで。
……でも、そんな晴れの日の雰囲気より逃れる風に、甲太郎は一人、正門前の歩道のガードレールに腰掛け、パイプを銜えながら、新宿駅へと続く方角を見詰めていた。
「皆守クン」
「………………八千穂。何だ?」
「九チャン、何か言って来た……?」
「……いや。──こんな所にいていいのか? お前だって親が来てんだろ?」
「いいのいいの。もう、講堂行ったし。皆守クンこそ、お家の人は?」
正門をバックに写真撮影をしている者達に邪険にされぬよう、片隅でそうしていた彼に近付いて、少しばかり落とした声で九龍のことを問い、次いで、彼の父兄のことを尋ねて来た明日香に、肩を竦めるだけの答えを甲太郎は返す。
「そっか……。…………皆守クン、もうそろそろ十時だよ。教室行かなきゃ駄目だって」
「……ああ」
「九チャンなら、絶対来るよ。この間会った時、言ってたじゃない、九チャン。卒業式には戻って来るって」
「ああ……」
「だから、教室行こうっ。ねっ?」
「……ああ」
「…………んもーーーっ。皆守クンっ」
「ああ」
「皆守クンっ! あたしの話、聞いてるっっ!?」
「あ? ……悪い、聞いてなかった。何だって?」
「だーかーらーっ。教室に行こうって言ったのっ! 卒業式、始まっちゃうじゃないっ」
やって来た彼女は、すげない甲太郎の態度にめげることなく、教室に行こう、と誘って来て、でも彼は、いい加減以前の相槌を返し、お叱りを買った。
「先に行け。俺は、もう少しここにいるから」
「駄目っ! ぜーーーったい、駄目っ! 皆待ってるんだよっ。九チャンが来ないからって、皆守クンまで卒業式に出ないなんて駄目っ。皆守クン、九チャンと何か約束してるんでしょ? その為に、三学期、あんなに頑張ったんでしょ? だったら、ちゃんと卒業しなきゃ駄目だよ。ほら、行こっ!」
誘いと叱咤に、甲太郎は少しばかりうざったそうな表情を拵え、顎を杓る風にして、行け、とやってみせたけれど、明日香は引き下がることなく、無理矢理に彼の腕を取り、腰掛けていたガードレールから引き摺り立たせる。
「おいっ。いい加減に──」
「──九チャンの為に、ちゃんと卒業するんでしょっ!?」
「…………チッ。判ったよ」
強引過ぎる、としか思えなかったその態度に、苛々とした口調で甲太郎は文句を言い掛け、が、彼女の一言に思い直し。
渋々、と言った足取りで正門を潜り、春風の舞う南北中央歩道を行き出した。
……校舎へと、明日香に急かされるまま歩きながら、彼は。
そっと、制服のポケットに手を突っ込み、携帯の電源を落とした。
期待も、不安も、もう、持ちたくなくて。
甲太郎には、何の感慨も齎さなかった卒業式は、午後一時を少し過ぎた頃、恙無く閉式した。
今日この日、三年間を過ごした学び舎より巣立つことを知らしめるそれに、彼が何の感慨も抱かなかったのは、結局、式次第の全てが終了しても、九龍が姿を見せなかったからだった。
恐らく、一月のあの朝、二月のあの夜、二人交わした約束通り、彼が天香学園へ──甲太郎の許へと還っていれば、今日という日にも、卒業式にも、彼とて、何らかは感じただろうに。
────でも。
九龍は還って来なかった。
卒業式が終わっても。
そして、今尚、還って来ない。
名残りを惜しむ部の後輩達に囲まれ、涙ぐみながら語らっている者達、やっとここからおさらば出来る、と弾けんばかりに笑っている者達、既に退寮の手続きも支度も終え、父兄と共に正門を潜って行く者達。
……そんな風な、様々な人の輪、人の波、人の流れ、それが一段落して、学内中が、祭りの後のような侘しさを醸し出し始めた頃になっても。
九龍曰くの『似非パイプ』を銜えつつ、己の卒業証書の入ったそれと、亜柚子から代理で受け取った九龍のそれと、二本の黒い筒を小脇に抱え、正門の門柱の一つに甲太郎が凭れ始めて暫しが経っても。
九龍は、影さえも。
けれど甲太郎は、卒業式に赴く前に落とした携帯の電源を、入れようとはしなかった。
持ちたくない、と思った期待も不安も、今更甦らせることは出来ず、唯、三月十一日までには帰る、と言った彼の言葉だけを、ひたすら信じる為に。
そうしていなければ、そうやって盲目的に思い込んでいなければ、彼は、一人で立っていることすら出来そうになかった。
ラベンダーの花の香りに包まれながら、九龍が残して行った言葉を縁
少しずつ少しずつ、『繋ぐ糸』は細められ、前日になっても何の報せもなく。
その『前振り』通り、卒業式が終わっても彼は還って来ないのだから。
『そういうこと』なんだろう、と。
《宝探し屋》という肩書きを背負ったまま向かった『別天地』で、二ヶ月前のあの頃とは違う『未来』を見付けたのだろう、と。
もう己は、九龍の『家族』でも『還る場所』でもないのだろう、と。
そんな判断を下して来る己の理性や思考を、甲太郎は受け入れてしまいそうだった。
否、既に、受け入れ掛けていた。
「皆守クン……」
「……あの、皆守君」
「ダーリン、は……?」
────そうっと、足音を忍ばせながら正門辺りを彷徨
己がそうしているように、見知り過ぎた顔触れが、門柱に、塀に、ガードレールに凭れて、九龍を待ち侘び始めても。
『景色』は、何も変わろうとはしなかった。
…………だから。
さっき銜えたこの一本が、全て灰になったら、現実を受け入れよう、と。
甲太郎は決めた。