この一本が……、と甲太郎が定めたアロマスティックが、燃え尽きようとした時。
新宿駅方面から、ではなく、逆方面から、学園正門前の車道を猛スピードで走る一台の乗用車が現れ、九龍を待ち侘びていた一同が、「ぶつかるっ!?」と思わず悲鳴を上げそうになった勢いで急ブレーキを掛けた車は、甲太郎の眼前で停まった。
「……何処の馬鹿だ、こんな運転──」
「──甲太郎っ!!」
「皆守君っ!」
酷いその運転に、甲太郎は思わず顔を顰め、悪態も吐き掛け、が、彼の呟きを、運転席の窓から身を乗り出した青年と、助手席から飛び出て来た青年が、同時に遮った。
「あ? 京一さん? 龍麻さん? ……あんた達、何やって……?」
「いいから乗って! もー、大騒ぎになっちゃってるんだよっ!」
「大騒ぎ? 何が?」
「何でもいいからとっとと乗れ! 卒業式は終わったんだろうっ? ──ったく、携帯の電源くらい入れとけっての! お前と連絡付かねえから、わざわざここまで来る羽目になったんだぞっ!」
「一寸待て。俺には何が何だか……。……それに、京一さん。あんた、免許なんか持ってたか?」
「取ったんだよ、三日前にっっ」
「三日前? なのに、乗れってのか? あんな運転するあんたが転がすそれに?」
「気にしてる場合じゃないっ。俺が生きてるんだから気にしないっ。俺だって怖いけど乗ってるっ! 四の五の言わずにさっさっと乗るっ!」
運転席から叫んだのは京一で、助手席から飛び降りたのは龍麻で、何で二人がここへやって来たのか、一体どんな事情があるのか、さっぱり見えないまま、取得して三日目、という、初心者も初心者、ぴかぴかの若葉マークな車に乗れと喚き立てられ、冗談じゃない、と甲太郎は断固拒否の構えを取ったが、痺れを切らせた龍麻に、ガシッ! と肩関節をキメられ、ずるずる引き摺られ、彼は、ぽいっと後部座席に放り込まれた。
「飛ばすぞ!」
「うっ。……きょ、京一、飛ばさなくてもいいっ。飛ばさなくてもいいから、極力穏便に、でも出来るだけ急いで……」
「ひーちゃん、んな無茶言うなってのっ。出来るか、んな器用なこと! ──ちゃんと、シートベルトしとけよっ」
「待て! 一寸待ってくれ、二人共っ!」
そのまま方向転換した車は、甲太郎の酷く焦った声を辺りに響かせつつ走り去り。
「………………皆守クン、大丈夫かな?」
「大丈夫……と言うか、大丈夫だと思うしかないでしょうね……」
茫然となった後、ちょっぴりだけ頬引き攣らせ、明日香と幽花は見詰め合った。
どうして自分が、事情も判らぬのに、アミューズメントパークの絶叫マシーン──体験したことはないが──よりも恐ろしいと思える、免許取得三日目の初心者がハンドルを握る、燦然と若葉マーク輝く車に押し籠められ、強制連行されなくてはならないのだろう、と甲太郎は心底思ったが。
そして、それを詰問したくあったが。
見たこともないくらい真剣な顔付きで運転している京一にそんなことをしたら、命が幾つあっても足りない気がしたし、そもそも、彼には問いに答える余裕などあるとは思えなかったし、龍麻も龍麻で、この上無く顔を強張らせ、左手で、装着したシートベルトをしっかり掴み、右手は膝上で握り固め、歯を喰い縛り足踏ん張って、ひたすら前を見詰めていたし。
甲太郎自身、背中に嫌な汗を掻かせる運転の所為で、喋るゆとりなどなくて。
結局、『目的地』に着くが着くまで、車内は沈黙と極度の緊張に支配された。
「もう二度と、あんたの運転する車には乗りたくない…………」
滑り込んだ駐車場で、車のエンジンが切られ、やっと。
ほう……、と心からの安堵の息を吐いて、ボソリ、甲太郎は言う。
「仕方ねえだろ、免許取って三日だぞ、三日っ! 事情があるからこうなったんだっての、俺だって二度と御免だぜ、こんなこと」
「……よ、良かった……。生きてる…………」
地獄耳で、細やか過ぎた呟きを拾い、ブチブチは言ったものの、京一も、はぁ……、とハンドルに凭れ掛かり脱力し、龍麻は、フロントガラスの向こうの空でない、何処か遠いお空を見詰めた。
「で? 何がどうしてどうなってる?」
死ぬかと思った……、と三人揃って幾度か溜息を付いて、漸く落ち着きを取り戻した頃、はた、と甲太郎は現状を思い出した。
「あ、そうだった。いや、それがなー……」
「説明したら、皆守君、怒りそうなんだけどさー……」
「いいから、とっとと言ってくれ。大騒ぎだって、死にそうな目に遭わされながら、ここまで連れて来られ──。……ん? ここ、は…………」
未だ落ち着き足りないのか、アロマのパイプを銜えつつ事情説明を求める彼に、ああ、と頷いてはみせたが、彼を連行した時の勢いは何処へやら、「はははー……」と京一と龍麻は顔を見合わせ、乾いた笑いを零し。
彼等の態度に軽い苛立ちを覚えた甲太郎は、窓の外へと目をやって、途端、面より表情を消した。
「……気付いた? 皆守君の、お父さんの病院」
弁えてはいた、甲太郎の声と顔が強張った理由を、龍麻が改めて告げ。
「そりゃ、な……。……ん? 病院? まさか…………九ちゃんに、何か遭ったのか……?」
「……そういうこった。っても、命に別状があるような話じゃねえけどな。──あいつ、今朝、新宿駅のホームのエスカレーターから、転げ落ちたらしいんだよ。んで……──」
以降、青年達は口々に、事情を語った。
朝のラッシュアワーも疾うに終わった、午前十時近く。
恐らくは、卒業式に出席する為酷く急いでいたのだろう九龍は、新宿駅山手線ホームの昇りエスカレーターから、結構な勢いで転がり落ちた。
落ち方が悪かったのか、余程激しく落ちたのか、立ち上がれなかった処か意識まで飛ばした彼は、駅員に救急車を呼ばれ、病院に担ぎ込まれた。
この時、彼の意識がはっきりしていれば、桜ヶ丘中央病院を指定することが出来ただろうから、話は『大騒ぎ』にならなかったのだろうけれども、救急車が向かった先は、極一般的な病院だった。
そこが、甲太郎の父が営む病院だったのは偶然の産物という奴だが、診察の結果、両足の骨折が判明した彼は緊急入院と相成り、患部の腫れが酷いので、手術は腫れが引くだろう一週間後と定められ、病室に運ばれた。
その時点で、時刻は午前十時半を廻っており、その間、彼は意識を飛ばしたままで、漸く彼が目を覚ましたのは、そろそろ午前十一時になろうか、という頃合いで。
どうして自分がこんな所にいるのか、何でこんなことになっているのか、さっぱり理解出来なかったが、己が今いる場所は、どうやら病院であるらしい、ということには気付けた彼は、看護師を呼び事情説明を求め、やっと事態を把握し、「だからって、こんな所で暢気に寝てる場合じゃなーい!」と暴れ出し、数名の看護師と医師に『鎮圧』される、という第一の騒動を引き起こした。
その、騒動・第一弾が一段落した頃、やっと大人しくなったかと、入院の手続きに必要な書類等々の説明を看護師が始めて、彼の現住所や保護者や連絡先のことに話が辿り着いた時、第二の騒動が起こった。
……多分、だが。その部分は、京一や龍麻の推測でしかないが。
聞き及んだ話より察するに、どうも九龍は、適当な受け答えでその場をやり過ごし、人の目が消えたらさっさとトンズラする腹積もりだったようで、学園にも連絡されたくなかったのか、天香の名前すら出さずに、至極いい加減なプロフィールを、即興で、でっち上げたらしかった。
一応、彼がでっち上げたプロフィールは、所持していたパスポートの内容に添ってはいたが、日本国籍がない──と言うか、己が本当は何処の誰なのか当人にも判らない──彼のパスポートは、ロゼッタ協会が作成した偽造パスポートだから、そこに記載された住所に、彼の所縁の者が住んでいる筈も無く、両親に連絡を取ろうとした病院側は、九龍の説明も、パスポートの内容も偽りであるのに気付いてしまい、警察を呼ぶの呼ばないの、という話に発展して、だのに、九龍にとっては、誠、不運だったことに、警察を、との騒ぎが院内で起こり始めても、彼が企んだトンズラは達成出来ておらず。
擦った揉んだの挙げ句、何とか警察を呼ばれる事態は阻止した九龍に、半泣きで呼び付けられたのが京一と龍麻で、慌てて病院に駆け付けはしたものの、どうにも偽造臭いパスポートを所持していた、なのに、何処からどう見ても高校生にしか見えない九龍と自分達の関係を上手いこと説明し、且つ病院側を言い包めるのは二人にも至難で、勢い、彼等も素性を疑われる羽目に陥り──しかも、やって来た内の片方である京一は、肌身離さぬ『中味』入りの竹刀袋を担いでいる故に、胡散臭い事この上無かったから──、やっぱり警察、と騒ぎはぶり返し。
申し訳なくは思ったけれど、手段を選んでいる場合ではなさそうだと、そこが甲太郎の父の営む病院だと気付いていた二人は、卒業式を終えたばかりの筈の甲太郎に、連絡を取った。
が、頼みの綱の甲太郎の携帯は、電源が落とされていたので繋がらず、仕方無し、その場に居合わせた職員の一人に無理矢理頼み込んで──正確には半ば脅して──、車を拝借し、病院長の一人息子である甲太郎を引き摺ってくれば何とかはなるかもと、免許取得三日目の京一の、どうしようもなくスリリングな運転で天香に向かって。