33.癒し act.1
あれは未だ、少年だった頃。
都市同盟の盟主だったミューズ市で、式典があった。
アガレス……いや……あの頃は未だ、父だった男と、母と。
未だ訪れた事のない街を目指しての道行きは、とても楽しくて……幸せな思い出で。
ミューズで見るもの、触れるもの、全てが新鮮で、年相応にはしゃいでいた覚えがある。
祖国への帰路の途中、蛮族共に、出会わなければ。
あんな、母の姿を見せつけられなければ。
逃げて行く父の背を、見付けてしまわなければ。
今でも尚、思い出も、『現在』も、幸福であり。アガレスは父であり。母は…………──。
今でも、あの『思い出』を恨んでいるのかと云われれば……それは多分、否、なのだろう。
あの出来事は確かに、恨む事、憎む事、人を殺すのを厭わない事、の、始まりではあったけれど。
今も尚、あの忌わしい出来事が、この想いの源であると云うのは……違う気がする。
唯、あの出来事が、全ての始まりだった、それだけが。
変わらぬ事実、だ。
ハイランドを治めるブライト王家の一行だと知りながら、牙を剥いた蛮族達に、草の上にて組み敷かれながら、母は。
逃げなさい、と云った。
ルカ、貴方は逃げなさい、と。
だが。
母を残して逃げ出そうだなどと……一瞬足りとも思えなかった。
妻と子を見捨てて、逃げて行った『父』の背には、倣いたくなかった。
……実際は、あの頃の俺よりは遥かに屈強だった蛮族達に押さえ込まれて、母が穢されて行く様を、見せつけられるより他、なかったのだけれど、それでも。
逃げたくは、なかった。
母を慰んだ男達に、何をされるのだとしても。
……『何か』をされた後、も。
あの出来事の後。
未だあの頃は若かったキバに、救い出されて後。
あの男達を俺は憎んだ。
逃げ出した父を憎んで。
そして、母を救えなかった己を憎んだ。
恐らくは、『弱い』から。
自分達よりも弱い女子供を、襲うしか能のない蛮族の途を。
母と俺を見捨てるより他なかった、弱い父を。
母を救えなかった、弱い自分を。
弱い、から。
より弱い俺を庇った、母をも。
全ての者達の弱さの象徴の様な、不憫な妹、ジルも。
弱い、と云う事は、罪悪だと思った。
本当に守りたいものを守る事も出来ない人間の弱さ、それは、罪悪にしか思えなかった。
強ければ。
唯、強く在れば。
何モノにも犯される事はないと思った。
己も。
守りたい、大切な何かも。
だから、当然の様に、蛮族達を、あの者達の住まう大地を憎み抜いて。
魂の底から憎んで、憎んで……でも。
この世の中で、最も憎んだ存在は、俺自身、だった。
この世界を満たす弱き生き物、人間、を呪って、尚呪ったのは、己でしかなかった。
己を憎んで、呪って、弱いと云う事、それを蔑んで。
そうやって生きて行く事が、辛く、虚しく、そして悲しく儚い事だと気付いたのは、何時の事だったろう。
己を憎み、呪い、蔑んで生きて行く事は、焦土の念しか産まなかった。
もしも叶うなら。
全てを忘れて、全てを赦して、あの頃に戻ってやり直したいと、幾度の夜、思っただろう。
けれど。
少年だったあの頃、確かに蛮族の全てを討ち滅ぼすまで…と、そう魂に刻んだ誓いを消すには、何も彼もが遅過ぎて、突き動かされる様に、人を殺すより他、道はなかった。
人を殺して行く事に、何の呵責も生まれぬ程、俺は殺し過ぎたから。
引き返す道など何処にもなくて、本当の部分で、引き返そうなどとも、思えなかった。
心の中の何も、如何なるモノにも傾こうとせず、凍り付いたまま在り。
何が正しくて、何が間違っていて、何を信じればいいのか、何を捨てればいいのか、俺には判らなくなっていた。
唯、焦土の念が、胸の奥底で燻るだけだった。
何を考えてみても。必ず最後には、己が憎いと、そこへ回帰するのみ、で。
全てが凍ってしまって、焦土と疼きしか覚えなくなって、剣を振るうより他、それを癒す術もなくて。
全てを憎む振りをし、全てを恨む振りをし、日々を送って来た。
人の生き血と肉を屠って、魂を食らわない限り。
この焦土も疼きも、消えそうにない。
だから……だから、人を殺しているだけだ、と。
そう自分に言い聞かせて来た。
あの男と、巡り会うまで。