41.なりたかったもの act.1
油が撒かれ、火が放たれたその森で。
シュウは、一人の男と、再会を果した。
──ハイランドとミューズの境界でもある、その森。
同盟軍がここを越え、皇都ルルノイエへの進軍を果す為には、どうしても何か一つ、策が必要だった。
レオン・シルバーバーグ。
赤月帝国の名軍師と誉れ高く、数多の軍師、宰相を輩出て来た名門、シルバーバーグを名乗る者の中でも、天才、と謳われた男を。
己が師匠の師匠に当たり。
かつては、憧れだった男を。
何としてでも欺く策が、必要だったから。
レオンや、同盟軍の仲間達や、後世の者達から見れば恐らく、愚策中の愚策、と評されても致し方ない策を、シュウは取った。
己自身で率いた小隊で、レオン・シルバーバークを誘い出し、森に火を放つ、と云うそれを。
訝しみながらも、正軍師の策に間違いはなかろうと、兵士達が撒いていった油は大量で、放たれた火は、瞬く間に燃え上がり、紅蓮が森を包み。
先に行かせた兵士達は無事だろうが、己も、ハイランドの軍勢も、レオン・シルバーバーグも、最早この森からは逃れられぬだろうからと。
嫌味を言い合いながら、地獄への道行きを共にする者が出来た、と、取り巻く炎の中、瞳を閉じて、シュウは立ち尽くしていたのに。
ふと感じた人の気配に、もう二度と開く事はないだろうと思った瞼をこじ開けてみれば……そこには、レオンの姿が、あって。
ほんの一瞬だけ、嫌そうな顔を、シュウはした。
「久し振りだな。シュウ」
彼の表情も、森を取り巻く炎も、気にはならないと云う風なレオンが、彼に語り掛けた。
「……さて。最後にお目に掛かってから、如何程の年月が過ぎたか、とんと記憶に」
こんな処で、己が放った炎が殺すだろう男と出会いたくはなかったが、生きている内からこの男とやり合うのも良かろうと、シュウはレオンへと向き直る。
「自ら森に火を放つとは。随分と愚かな策を取ったものだ。お前の師、マッシュの教えか? 少なくとも儂は、こんな馬鹿げた策を、あれに授けた覚えはないぞ」
「何とでも、仰るが良かろう。少なくともこの戦は、私の勝ちだ」
「……勝ち、な。自らの命を捨ててまで、あの少年の為に勝利をもぎ取り、どうする? どうなる?」
「どうするもこうするも。私は私の盟主殿に、あらんかぎりの才を以て、貴方に勝利を捧げる、と誓った身。それを、実践しているだけだが」
「『輝く盾の紋章』を宿した、あの少年、か。勝利を捧げ、命を捧げ……。無駄な事だな。あの少年が真実、希望になり得ると、お前は本当に信じているのか?」
「…………何が云いたい…」
──そうしている間にも。
森を取り巻く火の手は勢いを増し。
真実、退路は失せて行くのに。
二人はそんなやり取りを、淡々、と交わした。
「聞け、小僧。歴史は自然なるまま、流れるのではない。時に、人の手を貸し、流してやる必要がある。軍師、とはな。授かった知恵を揮い、歴史を導く為に在る。如何なる犠牲をも厭わぬ訳でもなく、強さを求めるでもなく。唯進んで行くだけのあの少年に、命をも捧げて何になる? 己が歴史の為に在る、その覚悟すらないあの少年が、如何なる希望になり得ると云う?」
────木々と、大地と、空と。
全てを焦がして行く炎の中で。
それまでと違う激しい口調で、レオンが云った。
「…………レオン・シルバーバーグ……」
射抜く様な眼差しで、胸に突き刺さる台詞を吐き出した男の名を、絞る様にシュウは呼ぶ。
「何だ」
「……貴方が、そう云う人である事は、昔から承知していた。戦争は、盤上のゲームと何ら変わりないのだ、と。何時か貴方は云っていた。盤の上から落ちて行くのが、駒なのか、兵の命なのか……差異は、それのみだ、と。──かつての私も、そう思っていた。貴方の云う通りだ、と。何も彼も、戦争も、この世界も、全ては盤上のゲームと変わらない。私達はその盤を取り囲んで、思うままに駒を動かし、唯、勝利を収めればいいのだと。そう思っていた。……貴方には、その才があって。そして私にも……その才はあった……」
「それが判っているのなら、そうすればいい。今からでも、遅くはない」
声を震わせながら云うシュウに、レオンが云ったが。
ふるりとシュウは、首を振った。
「貴方の云う事は、全てが正しく響いて、師・マッシュの言葉よりも正しく響いて……私は貴方に、憧れた。貴方の様に、なりたかった。戦場も、戦況も、人の命も、己が手の中で操り、絶対の勝利を導く、そんな存在になりかった。……でも。貴方の様になりたくて……貴方を目指して……ふと、気付いた。私の中から、『何も』なくなってしまっている事に」
「……何もなくなった? それは、感情の事を云っているのか? それがどうした? 結構な事だろう。下らない情に流されて、掴める筈の勝利、正しく流すべき歴史、それらを失うよりは遥かにマシだ。何故、そんな物に拘る。儂にも、お前にも、この世界に何が必要か、必要な物を世界に与える為にはどうしたらいいのか、それを知る才、それを得る才、全て備わっていると云うのにっっ。歴史の前に、情が一体、何の意味を持つと云うんだっっ。情など持たず、人の命運を操ってこそ、我々は、我々で在るのにっ!」
ぽつり、ぽつりと。
シュウが語った事を。
レオンは、何を下らぬ話をするかと、激高を見せたが。
「……私は……っ。私は、神になる気などないっっ! 況してや、それを気取るなどっっ!! 私は、神になりたかったんじゃない……。……私は、かつての貴方の様になりたかった……。師・マッシュの様になりたかった……。戦場の中で、正しく軍を導いていた、貴方達の様になりたかった……。唯、それだけだった……。私がなりたかった者と、私の正義は、決して同じ次元には……っ……」
その、長い黒髪を、振り乱さんばかりに。
激高したレオンに、シュウは感情を叩き付けた。
「…………それを、な。シュウ。……下らぬ感情、と云うのだ」
けれど、レオンは、冷たく呟いて。
結局は、相容れぬのか、と、シュウに背を向ける。
「……っ…レオン・シルバーバーグっ!」
炎の中へと、歩んで行くその背中を、シュウは叫びで追ったが。
かつて、憧れだった男の背が、霞んで行くのは止められず。
「あんたも、怒鳴れるんだなあ。初めて知ったよ」
背後から掛かった良く知る声に、彼は、振り向かざるを得なかった。
「ビクトール……。どうして、ここに?」
振り返った先にいたのは、熊の様な風貌の傭兵だった。
「どうもな。ここんトコ、あんたの様子がおかしかったし。戦場に、大量の油運ばせるってのも、おかしな話だと思ったんでね。後、追って来た。……急がねえと、本当に死ぬぞ? …ああ、リーダーの方は、フリックやマイクロトフ達が、ちゃんと面倒見てるから。策に従わなかったどーのこーのと、小言は云うなよ」
振り返ったまま、常ならば絶対に見せない驚愕を、隠す事も出来ない軍師を見遣り。
あーあ、ボロボロだな、と、ビクトールは苦笑を浮かべ。
動こうとしないシュウの腕を、強引に掴んだ。
「走れるか?」
「さあな」
「……きついなら、抱えてってやろうか? 女みてぇに。お前さん、軽そうだからな」
「冗談はよせ。正軍師が、抱えられて本陣に戻って、どうするんだ。第一、そんな醜態を晒すくらいなら、私はここでの死を選ぶ」
「……………死ぬ気だった癖しやがって、良く云うよ」
振り払えぬ力で己を引き摺って行く傭兵の言葉に、淡々とシュウは答える。
普段通りの声音で、可愛げのない事ばかりを云う彼を、真直ぐに前を向いて走っていたビクトールが、苦々しい顔で、一度だけ振り返った。