40.放棄

季節は未だ、夏だから。

一日の内で一等冷える明け方、吹き晒しの屋上に佇んでいても、トランの英雄が云った通り、体調を崩すまでには至らぬのだろうが。

吹き付ける風に体が震えて。

己が置かれた状況も、寒々しくて。

溜息を一つ零して、シュウは、その場に座り込んだ。

放り出されたその場所を囲む、低い塀に凭れ、小さな子供の様に、両の膝を抱え。

抱えたそこに、彼は顔を伏せる。

世界から、己自身を隠そうとしているかの様に、そんな態度を取った彼の隣に、大人しく、ルカも腰を降ろした。

白金の鎧を脱ぎ去った彼の、音のない、ふわりとした動作によって、辺りには血の臭いが立ち篭め。

伏せた面を、シュウは顰めた。

「………………俺の首を落とせ。恐らくはそれが一番、いい方法だ」

並び座ったシュウが、伏せてしまった顔に、如何なる表情を浮かべているのか知らず。

ぼそり、ルカが云った。

「出来れば、こんな苦労はしていない」

屋上に響いたルカの声を受け。

珍しく、その頬に、はっきりとした感情の色を浮かべながら、シュウは顔を持ち上げた。

「何故出来ぬ? 一度は、お前達……いいや、お前がしようとした事だろう」

シュウが浮かべた表情を、ルカは、ちらりと横目で見遣った。

「だからっ!! それが……出来ない、から……」

隣の男がくれた、一瞥を感じ取り。

シュウは、声を荒げ掛け、が最後には消え入らさせて、又、俯いた。

──流して来る視線も、表情も、声音も。

彼がいまだ、狂皇子である事を証明していて。

彼の体に染み付いた血の臭い、先程まで彼が流していた血の臭いが、近付き過ぎているが故に、感じ取れて仕方ないのに。

己は軍師であって、何時如何なる時も、感情を揺るがせる訳にはいかないのに。

この男の死を、確かに望んだのに。

己の立場は未だに、狂皇子の死を、望み続けているのに。

盟主の不快を買おうと、トランの英雄の不快を買おうと、構っている暇などなくて、叶うなら今過ぐ、この高みから突き落としてでも、彼の命を奪ってしまうのが、正しい道なのだろうに………………。

どうしても、それが出来なくて。

言葉すら、まともに生まれて来なくて……『自分』が何をしたいのか、何を考えているのか、何が一体、『自分』の望みなのか、推し量る事が出来なくて。

唯、俯くしか、シュウには出来なかった。

──ほんの少しばかり、何かを憎み、恨み、叫ぶ事の出来る彼が、羨ましかっただけだ。

彼が、この世から去ったと信じたあの瞬間。

世界の動きが鈍って、倒れ続ける彼の姿と、舞い続ける螢だけが瞳を占領して……そう、ほんの少しばかり、現実が見えなくなっただけの事なのに。

例え今、再び彼が、この世から消えても。

あの刹那の様に、ほんの少しの焦土と、ほんの少しの憔悴と、ほんの少しの落胆、ほんの少しの消失、それを覚えれば済むだけなのに。

どうして…………と。

俯いたままシュウは、憂鬱な溜息を、小さく吐いた。

──並び座ったルカは、何故? と問うたきり、何も云わない。

今でも彼は、狂皇子で在り続けるのに。

随分と『らしく』なく、唯、じっとしている。

何かを、待っているかの様に。

そんなルカの態度へも、シュウは、溜息を零すしか出来ず。

が、『らしく』ないのは、自分も一緒か、とそっと、苦笑を洩らして。

「……疲れた………」

考える事に疲れて、何も彼もがどうなろうと構わないとすら感じ始め。

朝の気配が濃くなっていく中、彼は、眠りたい、と云う体の欲求に、素直に応じてしまう事にした。

頭を項垂れさせたまま、ふっと瞼を閉じれば、辺りは徐々に明るくなって行くのに、閉ざした瞼の中の視界は、どんどん闇色を増し。

ことん、と暗闇に引き摺り込まれたかの様に、シュウは意識を睡魔に預けた。

意識を睡魔に預けた様に。

力の抜けた体を、ルカに預けてしまっている事に気付くよりも早く、彼は眠った。

預けられた体に、ルカが、戸惑いを覚えながらも腕を廻して、支えているのも知らぬまま。