49.行き着く先 act.1

休日だ、と決め込む者が大半だったその日の、夕暮れ時。

図書館の壁に凭れ、風に当たりながらぼんやりと、人々の営みを眺めていた時。

ルカは、その光景に出会でくわした。

──ふと、城門の方角を見遣れば。

滅多な事では、執務を行う自室から出て来ようとしない正軍師が、こちらへと歩いて来る姿があった。

出歩かぬと云っても、軍師である彼の事、昼の内には度々、あちらの視察、こちらでの手配、と飛び歩いていたから、そんな姿をルカも、度々見掛けてはいたが。

このような時間に、急ぐ風でもなく歩く彼を見るのは、珍しい事で。

図書館で調べ物でもするのだろうかと、何気なく、視線だけでその姿を追えば。

やはり、そこを歩いていた、昼間から『出来上がっていた』傭兵達の内の一人が徐に、彼へと近付き。

辺りに響く大声で、

「ソフィアーーーっ!」

と叫びつつ、抱き着いた。

男の言動に、ちらほらといた辺りの者、見ていたルカ、抱き着かれた当人であるシュウ、が、呆気に取られた顔をして、唯、酔っ払いを見詰める中。

「……ソフィアぁぁぁっ!」

事もあろうに己が軍の正軍師を、己が恋人と勘違いしたらしい男は、往来で、シュウを引き摺り倒そうとせんばかりの行為に出たから。

「………何を考えているんだ、貴様は」

自身にも、どうやってそんな早業を成したのか理解出来なかったけれど、気がつけばルカは、酒臭い傭兵の首根っこを掴んでシュウから引き離し、地面へと放り投げていた。

「あーあ……。すみません、シュウ様。こいつ、酷く酔っ払っちまって……」

どさりと、激しい音を立てて、打ち捨てられた男の姿が、固まった空間を崩して。

呆然としたまま、直立不動だったシュウと、強張った顔のルカへと、男の仲間達が近付き、頭を下げた。

「深酒も、程々にしろ」

謝罪に我を取り戻したのか。

倒れた男と、その仲間達を見比べ、シュウは淡々と云い。

「…………そ…──

ルカへと向き直ると彼は、少しだけ表情を変え、何かを云い掛けたが。

シュウが告げようとした事には耳を貸さず、ルカは、その場を立ち去った。

「一寸……刺激が強過ぎたかな。ルカにもシュウにも」

「そうですか? 俗に云う、当て馬って奴ですよね? 」

「んー……まあ、そうなんだけど。どう云う意味で刺激が強かったのかは、その内教えてあげる」

「はいっ。期待してますっ」

「…………期待されても困るんだけどね…」

「あ、それよりも。あの傭兵さんに、僕、御免なさいして来ます。変な事お願いしちゃった……んですよね? 僕達」

「ああ、そうだね。厄介な演技頼んじゃったし。僕も行くよ」

物陰から一連の騒ぎを見守っていた少年達が、そんな交わしていたのも知らず。

足早に、逃げるように、ルカは。

城内へと消えた。

………………そして、その出来事から数時間。

ロックアックスへの行軍を数日後に控え。

又、暫しの間、穏やかな日々とはお別れだ、ならば名残りを惜しもう、と。

そんな風に思った者達が多かったのだろう、普段よりも少しばかりざわめく城内を、ルカは不機嫌そうに歩いていた。

一日の動きが緩やかに終わろうとしている宵の口。

大股で、のしのしと階段を昇っていく遊歴の戦士と擦れ違い、何事かと振り返る者も多かったが。

己へと注がれる人々の眼差しなど気にも止めず、目的地を目指して彼は、城内を歩いた。

夕暮れ時の出来事が、どうしても、眼底から消えなかった。

──あの時。

何処の馬の骨とも判らぬ男が、酔って、己が恋人と勘違いしたとは云え、シュウに触れているのがどうしても我慢出来なかったから。

あの様な行為に己は出たのだ、と云う程度の自覚は、ルカにもあったけれど。

その自覚を認めたくないと云うか、黙殺したいと云うか。

そんな苛立ちを抱え。

が、その癖、そう云った『自覚』が何処から来るのかの源は、確かめてみたくなって。

夜更けと言えるその時間帯、彼は、シュウの部屋を目指し。

ノックをする事もなく、扉を開け放とうとして。

ふっ……と彼は、ノブを廻し掛けた手を止めた。

…………扉の向こうに。

シュウ以外の人間の、気配がした。

酒場や兵舎のある方は、未だに賑やかさが残っていたけれど、軍師の部屋のあるこの一角は、時間帯に相応しいだけ静かで。

シュウと、シュウ以外の誰かの、はっきりとした気配と、耳をそばだてれば何とか聞こえる程度の会話が、ルカには感じ取れた。

──ルカの耳にも何とか拾えた、彼等の会話は。

ロックアックスの城攻めに関する事の様だった。

レオン・シルバーバーグの足を止める為に、見殺しにしてしまうのだと、充分過ぎる程に判っていて、傭兵隊の砦を攻める陽動の任を、暗いとはっきり判るトーンで命じたシュウに答えた声は。

「シュウ殿。頭を下げるなどと、貴方らしくもない」

……キバの物、だった。

「一度は破れし我が身ですからな。この世に未練など、有りはしない」

「キバ将軍……」

どちらかと云えば、清々しい、とさえ言えるキバの声音に答えるシュウのそれは、何処までも苦しげで。

「…………では」

話を打ち切り、踵を返したらしいキバが出て来るのを、人気のない廊下の壁に凭れて、腕を組み、ルカは待ち構えた。

かちゃり、静かに扉が開いて。

毅然と前を向き、部屋から出て来たキバを、ルカは呼び止める。

「……キバ…殿」

「……ルカさ……──殿」

不意に、傍らから沸き起こった声に、びくりと体を震わせ、キバはルカを振り返る。

「……………俺とて、こうして生き長らえているのに。お前がこの世に未練などないと、云う必要はなかろう?」

「しかし……──

「俺も、行こう。お前と、そこの軍師殿が良いと云うならな。……お前には、クラウスがいるだろうが。死なせはせん。何があってもな」

苦しげな顔をして、見上げて来たキバに、ルカは命令口調でそう告げた。

「レオンの率いる隊を、ロックアックスに向かわせなければいいのだろう? それさえ叶えば、誰が死なずとも構わぬ筈だ」

ちろり、と。

キバを見遣って、扉の向こうで話を聞いているらしいシュウへも眼差しを流して。

腕組みを解き、ルカは凭れていた壁から離れた。

「ルカ様…………」

自分でそう決めたのだから、何者の意見も受け付けぬと、背を向けた彼の名を、キバは呟く。

──未だ、母上が生きていた頃。お前には随分……。だから、せめて、な。──最近になって、そう思える様になった」

遠離ろうとしていた足を、一度だけ止めて。

ここへ来てから随分と、己が胸を過る思いの質が変わって来たのだと、ルカはそう云った。

だから、貴様を『守って』やる、と。

だがそれは、決して、キバの為だけではなくて。

聞いた事もない様な、苦しげな声を放っていたシュウの為でもあるのだと、自分自身で認めながら。