──ルック──

儀式の地、と名付けられたシンダル遺跡の祭壇で、『彼』、ルックはその身を横たえていた。

百万の命とこの大陸、それを奪おうとした彼と。

百万の命とこの大陸、それを守ろうとした者達の、最後の戦いが起こった日。

────三十年間、見続けて来た『未来』。

この世の神、紋章が見せる未来。

音も無く、色も無く、何も彼もが息絶えて、バランスだけが整えられた、寒々しい未来。

それを、彼は見続けて来た。

神でありながら……いや、神だからこそ、なのかも知れない、世界に争いを齎す存在、紋章が、この世を戦火で被いつつ、目指すその先。

それを、彼は変えたかった。

世界の礎である紋章、それに縛られて歩くしかない人、進むしかない世界、その運命を塗り替え。

世界と人々を、紋章の握る鎖と枷から解き放ちたかった。

その為に、その身に宿る、真なる風の紋章を砕いて。

紋章の容れ物であれと、その為だけに『造られた』、人ですらない自分を、彼は『棄てて』しまいたかった。

だから、この戦いを起こした。

百万の命と、この大陸。

それと、引き換えにしてでも。

数多の命を奪う、悪鬼の如き魔導師となっても。

構わない、と彼は思った。

何も知らず、血だけを流させられて、紋章の望む寒々しい未来、それに向かって唯真直ぐ、突き進むだけの存在として、人が運命の上を歩くよりは、遥かにマシだ、と。

けれど。

彼の願いは、百万の命とこの大陸、それを失いたくないと願った者達──その為に集った宿星達に阻まれ、この地にて費えた。

だから。

力尽き、跪いた彼は、運命からは逃れられない定めなのかと、ぽつり、呟いたけれど。

彼を倒した『英雄』達は、運命などと、と言い残して、崩れ始めた祭壇より消えた。

彼を残して。

今、彼に残されたものは。

結局、その身から離れてはくれなかった、彼自身と深く深く結び付いてしまっている、真なる風の紋章と。

その力を解放された紋章の威力に、耐え切れなかった彼の魂と。

セラ、という、百万の命よりも貴方を選んだ、と言ってくれた少女だけ。

この世界から消えようとしている今も尚、ルック様と……と、そう言ってくれた少女だけ。

しかし、その少女も、跪き、倒れ、血を吐いた彼をその膝上に乗せながら、力を使い過ぎた為、疲弊してしまった命の灯火を消そうとしていた。

今になって漸く、初めて魂の存在を感じること出来た、ルックの眼前で。

「セラ……」

……己の手を取ったまま瞼を閉ざそうとしている少女の名を、ルックは呼んだ。

掠れているそれしか放てない己が声が、崩壊の轟音鳴り響く中、彼女に届いているのか否か、疑わしいと思いながらも。

でも、それでも。

ルックは彼女の名前を呼んだ。

……逝かないで欲しかったから。

しかし、もう、彼女の名を呼び続けることが、ルックには叶いそうもなくて。

彼も又、その瞼を閉ざそうとしたが。

「ルックの、馬鹿っ!」

「逝かせないよ、未だ、ね」

不意に、背後よりそう言われ、ふっ……と彼は、唇の端を歪めた。

遠い昔に聞いた懐かしい声だ、と、そう思った瞬間。

ルックは、淡い淡い光の渦に包まれている己に気付いた。

「ルック君………」

シンダル遺跡の中心部、祭壇の間を目指して、ヒューゴやゲドやクリス達が走り去った後。

未だに神殿を取り囲んでいる数多の魔物達を退ける為、掴んだロッドを振るいながら、ビッキーは振り返った。

「ビッキー……」

ビッキーと共に戦場に立ち、魔物達と戦っていたフッチも、彼女の様子に気付いて、悲しげな声を洩らした。

「でもね、ビッキー」

「……判ってるもん」

けれど、ここは戦場いくさば

戦う手を休めて振り返っている訳にはいかないと、フッチはビッキーを促し、嗜められたビッキーは、一度だけ俯き、又、前を向いた。

今、彼等の立つ場所は、ルックの邪魔をさせぬようにと、セラが力の限りに召喚した魔物達で溢れ返っている。

余りにも空しい現実だけれども、迷ったり、嘆いたり、想いを馳せている暇は、これっぽっちも無かった。

……が。

憂いを払って、フッチとビッキーの二人が再び魔物と対峙した時。

激しく冷たく、そしてくらい、一陣の風が辺りを席巻する。

「……え…?」

「ソウル、イーター……?」

十八年前と、十五年前。

確かにその目で見た黒い風が、たった今、周囲の魔物達の命を奪いながら吹き抜けたのを感じて、竜騎士と魔法使いの少女は、動きを止めた。

「大丈夫かい?」

「凄い数だねー、魔物。久し振りに見ちゃった、こんな数」

フッチとビッキーを中心に、魔物の数が激減したその空間で、何時の間に現れたのやら、カナタとセツナの声がした。

「カナタさんっ、セツナさんっ」

やあ、と脳天気な雰囲気を纏って戦場の直中に舞い降りて来た二人を、嬉しそうにビッキーが呼ぶ。

「時間がないから、手早く言う。頼みがあるんだ、ビッキー。すまないけれど、祭壇の間への入り口、アップルがいる所で、僕達を待っててくれないか。直ぐ戻って来る。危険かも知れないけれど、必ず、戻って来るから」

にっこりと微笑んで駆け寄って来た彼女に、カナタが早口で用件を告げた。

「御免ね。危ないこと頼んじゃって。……フッチ、ビッキーのこと、守ってあげてね」

何故、ここに……と、訝しげな顔をしているフッチに、セツナは、お願い、と言った。

「うんっ、判ったっ」

「判りました。彼女のことなら、俺が必ず」

カナタとセツナの願いを聞いて、二人は頷く。

「じゃあ、後でっっ」

多大に危険な頼みを快く引き受けてくれた二人に、有り難う、と微笑みを送り、カナタとセツナは、遺跡を目指して駆け出した。

「……え、ちょ……カナタさん? セツナさんっ?」

途中、ビッキー達と待ち合わせた場所に立っていたアップルに呼び止められたけれど。

「後でーーっ」

「急いでるんだ」

足を止めることもなく、一言だけを告げ、彼等は唯、ルックの気配だけを求めて、遺跡の奥へと向かって行った。

──これは、自分達の戦いではないから、と。

全ての決着がつくまで、その場所への立ち入りを控えていた彼等の目の前で、神殿は瓦解音を放ちながら崩壊していく。

遠巻きに遺跡を見守っていた時、真なる風の紋章の力が膨れ上がるのを彼等は感じていたから、この崩壊は、その影響だろうというのを、二人は良く知っていたが。

このまま進めば、自分達の身も安全でなくなると、充分、知っていたが。

彼等は、足を止めようとはせずに。

崩れゆく、遺跡の中を駆け抜け。

祭壇の間で横たわっているルックと、力尽きた風なルックのこうべを膝に乗せている少女を見付けた。

「ルックの、馬鹿っ!」

祭壇の中央にて、今にも瞼を閉ざそうとしているルックに向け、右手を掲げながらセツナが叫んだ。

「逝かせないよ、未だ、ね」

カナタも又、紋章宿した手を高く上げた。

すれば瞬く間に、辺りには、淡い淡い光の渦が満ち溢れ。

溢れた光が失せた後、ルックとセラの手を、セツナが掴んだ。

二人を掴んだセツナを、カナタが更に掴み。

懐から取り出しておいた『すり抜けの札』をカナタは、宙に放った。