雪寄せ草が咲かせる氷の華を踏みしだく音は、何時しか、大地に倒れ伏した兵士達の亡骸を踏みしだく音に変わった。
彼等が思った通り、全ての色を塗り替え、全ての音を飲み込む雪が降り出しても、舞い散る鮮血ばかりが鮮やかで、刃が刃を弾き合う甲高い音は絶えなかった。
────寒さは、もう感じなかった。
目も、耳も、体も、唯々、研ぎ澄まされた。
……あの頃のようだった。
剣だけを手に、トランの大地を駆けていた頃、デュナンの大地を駆けていた頃、そのままだった。
若かりし日が甦ったかのようで、若かったあの頃の自分が乗り移ったかのようで、あの頃でない、今の戦場を踏み締めているのに、懐かしさを覚えた。
涙が出る程。
──前だけを向いて生きてきたのに。過去は過去だと、碌に振り返りもしなかったのに。
想い出と現実は、確かに、胸の中の住処を違えているのに。
遠い遠いあの頃が、昔と成り果ててしまったあの頃が、どうしようもなく懐かしかった。
………………でも。
戦いの最中、身に、心に、図らずも甦ってしまったそんな想いが、本当は郷愁などではないことを、ビクトールもフリックも知っていた。
これは、こんな想いは、懐かしさではない。郷愁でもない。
……それを、二人は判っていた。
────懐かしさではない。郷愁ではない。
これは、あの頃の呪縛だ。
歳月を経ても尚、己が身と心を捕らえる呪縛。
二十七年前のあの頃、二十五年前のあの頃、それぞれの戦いを率いた少年達が己達へと見せ付けた『夢』、己達があの彼等に見続けた『夢』、それを、振り払えないから。
今尚、心密かに、彼等への『夢』を見続けること止められないから。
断ち切れもせず、甘んじ続けてしまった呪縛。
自ら、搦め捕られることを、知らぬ間に望んでいたそれ。
…………これが。
後から後から溢れるだけの、懐かしさなら良かった。
郷愁なら良かった。
本当は、あの頃に還りたいと思っていたんだ、と照れながら言える、真実、想い出なら良かった。
懐かしみには出来なかった。
郷愁には出来なかった。
想い出にすら、出来なかった。
それ程に、あの少年達が見せ付けた『夢』は、あの少年達に見続けた『夢』は、鮮烈過ぎた。
呪縛以外の、何物でもないまでに。
ヒタヒタと、死の足音が迫り来た、この冬枯れの戦場でも尚。
己達を繋ぎ止める、己達を搦め捕る、見果てぬ『夢』という名の呪縛。
──────長らくが経って、亡骸を亡骸とも思わぬ足音が途絶え始めた。
ああ……、と思った時には、仲間達は潰走を始めていた。
隊としての秩序もなく、命の為だけに散り散りになって後退していく彼等の姿に、負けたな……、と。
負けられぬ筈の戦いに、負けたんだな……、と。
ビクトールとフリックは、ぼんやりと思った。
けれども、彼等の戦いは未だ続いた。
歴戦の経験を買われ、傭兵部隊を任された者として、部下達を逃し、自らも生き残る、という使命があった。
「てめぇら、先に行け!」
「でも、隊長達はっ!?」
「いいから! 邪魔だ!」
長い長い間、そうしてきた通り、戦線離脱を躊躇う若い兵士達へ、剣を振るいながらビクトールは怒鳴る。
「本当にお前は、殿が好きだな! 歳を考えろよ!」
その背を庇う風に、振り被った剣の切っ先を真っ直ぐ下ろしたフリックも、声を張り上げた。
「何時も言ってるだろ。殿ってな、一番強い奴が受け持つもんだ、って」
「又、それか? 何年も何十年も、同じこと言ってて能く飽きないな。芸のない。……お前は好きでやってることでも、俺は──」
「──好きで付き合ってる訳じゃない、だろ? お前も大概、芸がねえ」
「こんの、馬鹿熊……」
「………………本当に、芸がねえのな」
ビクトールに胴を断たれた敵兵、フリックに頭頂を割られた敵兵、それぞれが、断末魔の声もなく地に伏すのも待たず、二人は剣を薙ぎながら、背中合わせで喧嘩を始める。
口先も、剣先も、何時も通り達者だったけれど、積もり始めた雪に、足を取られ始めていた。
迫り来る敵兵は、数を増す一方だった。
「こりゃあ、マジで踏ん張り処だな」
「何時だってそうだろ?」
「……まあなー」
「ビクトール。お前が持って生まれた運は、確かに太いかも知れないがな。どうしようもなく質が悪いんだよ」
「お前みたいに、運がねぇよりゃマシだ」
片目で敵兵を捉え、片目で退路を探し、背と背だけは預け合いつつ、二人は戦場を走る。
「今夜の酒は、不味ぃだろうなあ……」
「その前に、金返せ」
激しさを増してきた雪の所為で、辿るべき道筋は見出せなかったが、彼等の口より飛び出るのは、ひたすら、軽口だった。
「……なあ、ビクトール」
「何だよ。うるせぇな」
「俺とお前って、本当に、どうしようもない腐れ縁だよな」
「…………その科白、何時だったかも聞いたな。……あ、そうだ。ハイイースト動乱の時か」
「そうだったか?」
「ああ。覚えてるぜ。俺は別に、それでもいい、って言ったのも」
………………降りしきる、雪の所為だろうか、それとも……。
己が命を明日へと辿らせる道筋を、どうしても、二人は見付けられなかった。
視界の全て、白だった。
雪の白。
ナニモノの足跡もない、純白の野。
……在るのは、唯、それだけで。
道は、何処にもなく。
「ぐっ…………」
「ビクトール!!」
────何処を、何を、辿って行けばいいのだろう、この、純白ばかりの野で、と二人共に思い始めた刹那だった。
二人の目には、足跡すらない純白の野と映るだけで、現実には数多溢れる敵兵の一人が、その剣で以て、ビクトールの腿を薙ぎ、次いで脇腹を抉った。
抜き去られた剣に、自らの鮮血を斑に纏わり付かせつつ、彼は、雪の上に膝を付く。
「しっかりしろ、この馬鹿!」
彼と己を取り巻く敵兵達を、大振りしてやった切っ先で退かせ、フリックは、蹲る背中を守った。
「馬鹿はどっちだ! 鈍臭ぇことしてんな、とっとと逃げろ!」
……それは、最早無用だと、ビクトールが怒鳴った時。
「馬鹿言って……────」
刃が、フリックの肩に食い込んだ。