……けれど。

そんなこと……、と言いたげなセツナに視線をくれられても。

カナタは只、首を横に振るだけだった。

「……………………そう思いたい、君の気持ちはよく判るけどね。どうしたって、路銀がなければ、街から街へは移れない。百歩譲っても、そう遠くへは行けない。……見つかったら、脱走兵、の烙印押されるのが判っていて、軍の駐屯部隊がいるこの街や、この街の近在で、どうやって真っ当に働く? ……違う?」

「ううううう……。それは、そうですけど……。でも……、だって、そんなの…………」

それでもセツナは、食い下がる素振りを見せて。

「…………セツナ」

「判ってますけど……。その人が、良くないことをしちゃってるかも知れないって、考えといた方がいいくらい、判ってますけど……。…………マクドールさん。僕、甘いこと言ってるって、それは自分でもよく判ってるんです。けど、そんなことないって、思いたいんです……。それに……、脱走したって、決まった訳じゃないし…………」

それを嗜める風に、名を呼んだカナタから眼差しを外し、ぼそぼそ、俯きながら、彼は囁く。

「……うん、そうだね。未だ、そうと決まった訳じゃ、なかったね。最初から疑って掛かった僕も、悪いこと考え過ぎたかも。……ほら、セツナ。だからもう、そんな顔しないの」

自分で自分に、言い聞かせる為だけの科白を吐いていると、セツナ自身承知の上だと、判ってはいたけれど。

こんなことを告げてみても、その場凌ぎにしかならないと、そうは思ったけれど。

歩みさえ止めそうになって、俯いてしまったセツナの髪を、カナタは撫でてやった。

「……はい…………」

「ね? 元気出して。…………ああ、いけない。セツナ、雨が降って来た。急がないと濡れてしまうよ。冬の雨に当っても、碌なことはない。…………どうする? もうこんな時間だから、今夜は本拠地帰る? それとも、ここに泊まる?」

「あ、ホントだ。雨ですね。……んと…………。えっと、今日は、ここ泊まります。宿屋行きましょ、マクドールさん」

──慰めて貰っちゃってるなあ……、と。

困ったように笑って、セツナがカナタを見詰め直せば、そんな顔を見せられた彼の方も、細やかに笑い返して。

降り出した雨を避けるべく、小走りになった彼等は、市門近くにある、一軒の宿屋に飛び込んだ。

バタン……と、高い音を立てて宿屋の扉を開け放ち、きゃいきゃい言いながら中に踏み込み、大慌てで扉を閉めた、その途端。

雨の音は一際高くなって、窓越しに外を見遣れば、宿より洩れる薄らとした灯りに、花壇脇に盛られた土が、激しい雨粒に抉られ、崩れて行く様が浮かび見えた。

「随分と、酷い雨になったなあ……」

「ですね。明日の朝には、止んでくれると助かるんですけど」

「お天道様が、機嫌を直してくれるように、祈るしかないね、こればっかりは。……この分だと、今夜は底冷えしそうだ。直ぐにお夕飯出して貰って、早めに休もうね」

「はーい。寒くなってきましたしね。雪にならないだけ、マシかもですね。今日は、さっさと寝ようっと」

──窓辺の景色を眺めつつ、雨露を含み始めていたマントを脱いで、パタパタと雫を払い飛ばし。

いらっしゃいと出迎えてくれた、宿の主人に夕餉を頼んで、取れた部屋へと彼等が向かう、その間にも。

その夜の雨は、益々、激しさを増す一方だった。

朝から続けた調べ物や、人探しに歩き回った所為で疲れでもしたのか。

さっさと寝る、の宣言通り、セツナは早々に、ベッドに入ってしまった。

それは確かに、『子供は寝る時間』ではあったけれど、『少年』には多少早過ぎる頃合いで。

セツナの寝息が上がるのを待って、ベッドを抜け出したカナタは、宿の一階の酒場へ降り、一杯、酒を所望した。

外見は兎も角中味の方は二十二歳の彼が、子供の眠る時間に床に付くのは、やはり早過ぎるし、少し、考え事をしたいというのもあって。

湯で割った蒸留酒のグラス片手に、相変わらず降り続いている雨を、酒場の窓越し、彼は気のない風に眺める。

…………何代も続いた、生粋の軍人家系に生まれ育った彼の考え方は、セツナよりも遥かに、固いとも言えるし、厳しいとも言える。

だから、『ああいう』性根のセツナが、『噂の彼』のことを、それでも庇おうとする気持ちを、カナタとて汲めない訳ではないが、確かに件の彼が、同盟軍からの『足抜け』を図ったと言うなら、言語道断、と彼は考える。

一度、武器を取って戦うと決めた者が、己の身勝手を理由に抜け出した、というのであれば、カナタはそれを、許す気にはなれない。

それを許したら、同盟軍の為にはならないし、何よりも、セツナの為にならない。

故に、彼には、到底。

……同盟軍にとって、との部分は、何処までも、彼自身にはどうでもいいことだけれど、同盟軍の為にならないということは、即ち、セツナの為にはならない、ということだから。

──軍が、軍である以上。

戦争と言う、命のやり取りに勝ち抜くことを、旨と掲げている以上。

軍を、『軍』として成り立たせる為の、絶対的な規律や規範は、必ず存在する。

それより漏れた者を、例外として目溢しするつもりなど、カナタにはない。

…………脱走をすると言うこと。延いては、戦友を裏切る、ということ。

それが、軍という括りの中で、どれの程の重さを持つことなのか。

彼には、よく、判っている。

なので。

そういう意味で彼は、行き方知れずの彼を、何とか捜せるものならと、そう考えているのだけれど。

「…………捜すと言ってもねえ……。こうなってくると、雲を掴むような話だしな……」

一向に中味の減らない、酒のグラスを適当に廻しながら。

姿を晦ましてしまった人間一人の行方を、さて、どうやって掴むかと。

彼は、溜息を零した。

「……ま、仕方ない。明日、もう一日ここで粘ってみて。それから、かな」

やれやれと、重い息を吐いた後。

呑むのを止めてしまったグラスを脇に除けて。

戻ろう、と彼は、席を立った。

就寝の挨拶の声を掛けてくる、宿の者達に会釈だけを返して、階段を昇り、客室へと続く廊下を辿り、彼は、静かに扉を開ける。

未だ少し、頃合いは早いけれど。

ベッドで眠るセツナの傍らに滑り込んで、己も、又。……そう思い、伏せ目がちにしていた眼差しを持ち上げれば。

「………………セツナ?」

部屋を出る時、ほんの僅かだけ灯しておいた灯が照らし出す、ベッドは。

もぬけの殻だった。