濡れ鼠になって飛び込んだその小屋にて過ごした時間は、それ程長くはなかった筈なのだが。

湿気を含んで軋む、丸太造りの扉を後ろ手で彼等が閉めた時にはもう、あれ程激しかった雨が、降り止んでいた。

けれど、雨上がりの夜空には未だ、月も星もなくて。

ここを訪れた時のように、夜目だけを頼りに、二人は森の小道を辿り始めた。

水の滴る二人分のマントも手袋も、今はカナタの右腕に掛けられているから、剥き出しの素手を、何となく二人は繋いだ。

そうすれば、何故か、ほわ…………っと。

足許の覚束ない夜道を辿る二人の為にと言わんばかりに、カナタの左手と結び合わされたセツナの右手の、輝く盾の紋章が、薄く淡く、緑柱石色の光を灯した。

…………宵闇を弾くそれは、まるで、日没を迎えたばかりの稜線を彩る、夜の始まりの空の色のようで。

足先を照らし始めたセツナの紋章の灯火を眺めながら、億劫そうに、マントと手袋をぶら下げた手を持ち上げ、びしょ濡れのバンダナを外し、前髪を掻き上げたカナタのそこから散った雨の名残りの雫は、夜空の始まりに輝く星々ように、紋章の光を映した。

「………………何となく、想像付いてたんです」

カナタが、セツナの右手の紋章の光を、横目で眺めたように。

セツナも又、カナタの前髪から散る雫を、横目で眺めて。

ぽつり、言い始める。

「……彼の、『理由』?」

「ええ……。あの人が、あんなことした理由。──…………田舎町って、そうなんですよね。良くも悪くも。あの人が言ってたみたいに、昨日、何処の道の角で、ブチ模様の野良猫が転んだ、なーんてことまで、次の日には町中が知ってるんですよね。…………キャロも、そんな風なトコでした。だから、あの人の気持ち、解らなくもないんです。……でも…………」

「『でも……』、何?」

淡い光が照らし出す、ぬかるんだ森の小道の土へ目を落としながら、小さくセツナが言い出したことに、カナタは言葉少なに、耳を貸した。

「……………………マクドールさん」

「ん?」

「命を粗末にしないことと、人を殺すことって。別問題ですよね」

「ああ。命を粗末にしないことと、人を殺すこと。それは決して、同じ次元には存在しないよ。僕は、そう思う」

「僕も、そう思います。命を粗末にしないことと、戦で人を殺すことって、別問題だ、って。でも、それをあの人に言ってみても、多分、解って貰えないんだろうなあ、って、そう思ってて……。けど、この人の気持ちも何となくは解るし、だから、どうしようかなあ、なんて思ってたら、あの人、あんなこと言い出しちゃって…………」

「……そうだね」

「僕のことなら、どれだけ悪く言ってくれたって、別に良いんですけど。僕もやっぱり、皆のことは、悪く言われたくなくってですね。まあ、嘘言ったつもりはないんですけどね。皆は、人殺しじゃないって、僕は思ってますし、事実ですから。……でも……、………………難しいですね、こういうことって」

そんなことを呟いていたら、繋いだ手を握る指先に、カナタが僅か、力を込めたのに気付いて。

セツナは、俯いていた面を持ち上げ、雨上がりの夜空を再び見上げた。

「………………確かに、こういうことは、どうしようもなく『難しい』話ではあるけれど。……セツナ。とてもとても嫌な、『現実』の話をしてもいい?」

「……ええ。いいですよ」

「…………だからこそ。僕達は、戦争に勝たなくちゃいけない。戦う以外、道はないと言うなら。勝たなくてはならない、何が何でも。……戦争に負ける、ということは、国を失い、故郷を失い、それまで確かに在ったモノを失ってしまうだけではなくて。旗印の下に戦った者達全てを、只の人殺しになり下げてしまうことでもあるから。戦には、崇高も下劣もないけれど、例え、どれ程崇高と思える信念や、正義と信ずるモノの為に戦ったのだとしても、負けたら意味がない。…………難しい話、ではあるけれど。『現実』を見れば、『それだけのこと』だ。負けたら、全てが終わる。……だから、僕達は、勝たなければ。『現実』だけを見て、勝たなければ。…………頑張ろうね。多分これからも、辛いことの方が、多いのだろうと思うけれど。傍にいるから。歩く時も、立ち止まる時も、走る時も、踞る時も。傍にいて、全てを共に、そう約束するから。……僕が君に誓ってあげられることは、それだけだけれど。この戦争が終わる日まで、頑張ろうね、セツナ」

月も星もない、夜空を振り仰ぎ。

そのくせ、その薄茶の瞳に、何一つとして映してはいないような、胡乱な顔付きをしたセツナを、優しく励ます風に、カナタは静かに言い聞かせて、繋いだ手を軽く引き、ほんの少しばかり、今まで以上に、彼を傍近くへと引き寄せた。

「……マクドールさん」

そうしてみれば。

されるがままになりながらもセツナは、夜空よりカナタへと、その視線を移して。

「…………なぁに?」

「……これ、訊いたことありましたっけ…………?」

「何を?」

「…………訊いても、怒りません?」

「……だから、何を?」

「……初めて、人を殺した時のこと、マクドールさん、憶えてます……?」

ボソ……っと。

セツナは問うた。

「……………………憶えてるよ。今でも、良く憶えてる」

「一緒、ですね。僕も、憶えてます。今でも、良く憶えてます。……僕が初めて人を殺したのは、ビクトールさん達の、傭兵砦にいた時でした。砦を攻めに来た、ハイランドの人達と戦った時。…………あの時から、『始まって』ますもんね。…………うん、そですよね。『現実』見て、明日から又、頑張ります。マクドールさん、いてくれますし」

──セツナの問いに返されたカナタの声は。

酷く、過ぎる程に、厳かで。

その声を聞き終え、カナタの顔を覗き込んだまま、くりっと、薄茶の瞳を動かして、セツナは。

ほんわり、と、笑った。