水面を、鏡へと変えたかのように、それまで、揺らぐことなく満月を映していた池の水が、不意に、さざ波立ち。
ああ、風が出て来た、と、カナタは又、空を見上げた。
しかし、天頂には未だに雲の姿は窺えず、そこには唯、月だけがあり。
「…………楽しいのかな、釣りって」
さらり、浮きを揺らせる水面へと眼差しを戻して、彼は、この三年の間、幾度となく繰り返した問いを、再び洩らした。
「考え事をするには、或る意味最適。釣る気さえなければ最適。仙人目指すなら良いかもだけど。……別に僕は、仙人になりたい訳じゃないし。日々の食事っていう、必要に迫られての釣りは、鬼気迫るそれになってしまうし。……きっとマッシュは、根っからの軍師だったんだな。ま、釣り糸を垂れながら、この世の真理に思い馳せていたのかも知れないけれど。どっちかって言えばマッシュは、釣り糸垂れながら、陣形図、頭に描いてた口だろうしねえ。……マッシュだから」
そうして彼は、三年前に逝ってしまった、己の軍師だった男を思い出し、その彼が、己の軍師となる前は、釣りばかりをしていたことをも思い起こし。
彼、マッシュに倣って始めたらしい釣り、そのものへと軽い溜息を付いて、座り続ける小さな橋の板の隙間に、ガスリと音立て釣り竿を預け、頭の後ろで組んだ腕を枕に、寝転がった。
……そのまま、夜空を見上げていれば、そよぎ始めた風が雲を運び、運ばれた雲が月を覆って、薄暗くなった辺りに身を任せ、うつらうつらとしている内に、月は引っ込み陽が昇って、朝となるだろう。
朝となればきっと、宿屋の娘が、一晩帰らなかった己を気遣って、さり気なさを装い、迎えに来るだろう。
だからそれまでは、このままでいよう、と。
彼はぼんやり、月の描く真円を見詰めた。
照りつけるその光が、月とは思えぬ程に眩しくて、白夜を思い起こす、そう考えながら。
────満月は、日没の頃、その姿を東の空に現す。
そうして真夜中、南の天頂を通って、明け方、西の空へ沈む。
瞬く星が照らすだけの、暗い暗い夜空を、一晩、満月は照らし。
陽と入れ替わるように、山の向こうへ落ちて行く。
……そんな月が、煌々と照る夜は、遠い北の大地で見遣った、白夜のように思える。
白夜の眩しさとは、比べようもないけれど、それでも。
今の己にこの満月の夜は、白夜に等しい。
夜の来ない夜。
光の沈まぬ夜。
白夜では有り得ない、幻想の白夜、それを見遣る己の瞳が、こうしている『今』を、全て物語っている、と。
…………本当に、故郷のことを想うなら。
『大切』な『大切』な、故郷のことを想うなら、己がここにいてはいけない、それくらい、誰に言われずとも理解している。
魂喰らいがどうあろうと、魂喰らいの理屈がどうあろうと、その理屈を、己自身がどう捕らえようと。
己は、この場所にいてはならない。
己が、魂喰らいも持たず、世捨て人となって、世界を彷徨うだけの只人になれたとしても、トラン解放軍軍主、建国の英雄、その肩書きは消えない。
カナタ・マクドール、その名が、その存在が、良しに付け、悪しきに付け、様々な『価値』を持つことは否めない、例えそれが、下らぬ価値だったとしても。
それ故に、己はここでは、望まれぬ存在である筈だ。
でも、それでも。
唯の月夜を、光沈まぬ夜とこの瞳が映す程、この場所は魅力的だ。
そう、蠱惑に溢れる。
人を惑わす、妖魔の如くに。
──耳に馴染み過ぎた、懐かしい名前が、このデュナンの戦いでも聞き齧れるらしいこと。
あの戦いを、星に導かれるように駆け抜けた、懐かしい名が、ここにもあるらしいこと。
……嘘なのか、真なのか、それは未だ、判らない。
只の、噂と消えるかも知れない。
けれどもしも、彼等がこの地に在るなら。
あの戦いのように、この地の戦いも、星に導かれるように、駆け抜けようとしているのなら。
このバナーより北へと広がる、デュナンの大地の何処かに。
天魁星、その名の星に愛された者が、在るかも知れない。
この地にいれば、もしかしたら。
天魁星、その星の下に生まれた者と、巡り逢えるかも知れない。
……………ここは。この地は。
そんな誘惑に、溢れている。
────この、蠱惑も。
所詮は白夜のような、幻影かも知れない。
有り得ぬことかも知れない。
天魁星を導ける、唯一の存在、天魁星に、巡り逢える行く末など。
有り得ぬ夢かも知れない。今宵のような月に掛ける、叶わぬ願いの一つなのかも知れない。
そしてそれが、幻影と終わらずとも。
その者に、敢えて己は、背を向けるかも知れない。
背を向けるべきであると、知っているから。
……だけれども。
この地は、蠱惑に溢れている。
人を惑わす、妖魔の如く。
幻影の、白夜の光の如く。
消えぬ光、沈まぬ光、もしかしたらそれが、この手にも、との。