心情を、素直に言葉にすれば、息が詰まると言える、そんな話をされていた最中に。
急に、幼い頃は、何処で? と問われて。
咄嗟にソニアは、返答が出来なかった。
「ほら。シューレン家は代々、赤月の水軍頭領を務めて来た家だから。もしかしたら貴女は幼い頃、この街ではなく、シャサラザードの方で育ったのかも、そう思って」
が、答えに詰まった彼女を無視するように、カナタは穏やかな調子で話を続け。
「……いや、私が育ったのは、この街だ。母のキラウェアは忙しい人だったから、余り一緒にはいられなくて、私も母と一緒にシャサラザードに住みたいと、そう思い、ねだったこともあったが。……私が十を越えるまで、母は私を、あの砦には連れて行ってくれなかった」
そこで漸くソニアは、唐突に変わってしまったカナタの話に追い付いた。
「……ふーん、そう。……だったら、貴女も見たことあるかな。この国が、共和国になった今でもそうなのか、ずっとここを離れていた僕には判らないけど。赤月だった頃はよく、季節の変わり目の頃なんかには、グレッグミンスターに、旅芸人の一座とか、来たりしたろう? サーカスとか」
「…………ああ。今でも、それは変わらないようだ。相変わらず、季節の変わり目に催される祭りの際や、新年を迎える頃には、そんな芸人達が、この街に来る。もう、随分と長い間、私も直接は見ていないけれど」
「なら、憶えてない? 何年前かなあ。もう、十六、七年は前かな。サーカスの一座だったか、旅芸人の一座だったか、一寸うろ覚えになっちゃったけど。何処かの一座が、手回しの小さな回転木馬、女神像の前の広場に組み立てて、お披露目して。それが凄く話題になった年のこと。あれから暫く、この街ではそんな遊具が流行ったから、記憶にあるんじゃないかと思うんだけど」
すればカナタは懐かし気に、遠い昔を口にし。
「回転木……──。────そう言えば……。……そうだ、憶えている。確か、十七年くらい前の夏の。小麦の収穫祭に来た何処かの一座が、勝手に広場に拵えた物だった筈だ。あの時は珍しく、母上がこの街にいたから、皇帝陛下の許可も取らずに、とか、渋い顔をしていた母上にねだって、連れて行って貰った。小さな子供が二、三人しか乗れない程度の、本当に細やかな物だったから、城の方も目を瞑ったらしく、母上が、折れてくれて」
彼と同じく、遠い昔を思い出した彼女は、薄く、笑みを湛えた。
「あはは。一緒、一緒。僕は、父上に、じゃなくって、グレミオにねだったんだけどね。あの年は父上、一夏、家に帰って来なかったから。駄目です、危ないですっ! って渋るグレミオを、泣いて脅して駄々捏ねて、連れて行って貰った。…………でもね。結局、僕はそれには乗らずに。早々に、家に帰ったんだよ」
「……どうして? 十七年程前なら、そちらは未だ、五つくらいだろう? あれには充分、乗れたと思うが」
「……ああ、体の大きさの問題じゃなくって。…………あちらこちらの珍しいモノが、山程転がってるこの街でも、あれは、中々お目に掛かれない物だったろう? だから、本当に沢山の子供が、小さな小さな回転木馬の前に、人だかりを作って。あれに乗る為に、気が滅入る程並んでた。……そんな中に混ざってたらね、寂しくなったんだよ」
仄かに、笑って。
在りし日のことを語り始めてくれたソニアに、カナタは益々笑みを深め。
でも結局、自分は『思い出の回転木馬』には乗らなかった、と、深めた笑みをそのままに、言った。
「寂しい?」
「うん。回転木馬に乗る為の列に混ざって周りを見ていたら、寂しくなった。周りの子供達は皆、父や母に手を引かれているのにな、って。……我が儘だと判っていたし、一緒に行ってくれたグレミオには、申し訳ないと、幼心に思ったけれど。只でさえ、父上は仕事でいないのに。一夏、帰って来ないのに。僕には、母上もいない。母上の顔も、僕は知らない……なーんてね。子供だったからね、僕も」
そして彼はペロリ、舌を出してみせる。
「……カナタ……」
「──長じて。母上の顔を知らなくても、僕には沢山家族がいて……と。そう思えるようになったけれど。それから、十二年が経って。……『あの年』。貴女が、僕の母上になってくれるかも知れないと、そう知った時。酷く気恥ずかしくて、そして、嬉しかった。僕にも、母上が出来るのだと。もう、子供だった頃に感じた寂しさを、僕は感じなくてもいいのかな、と。そんなこと、思った。────ソニア」
「…………何だ」
「僕達は、こうなってしまった。何がどうあろうとも、僕の行いは消えないし、貴女の想いも消えないんだろう。でも僕は、あの戦争の何も彼も、唯一つとして後悔なぞしていないから、僕の想いと貴女の想いは、何時までも近付くことなく、平行線を辿り続けるのかも知れない。けれど、セツナが泣いたように。家族になれる筈だったかも知れない者同士として、少なくとも僕は、僕達の『今』が、あの頃のまま在るのも、悲しいことなのかも、とね。そう思わなくはないよ」
「それ、は………………。でも……」
「……僕は、母上の顔を知らない。僕の命と引き換えに、母上は逝ってしまった。でも僕には父上がいたし。もう一人の母上になってくれたかも知れない人がいるし。家族も沢山いたし、いる。なのに、何の努力もしないのは、生まれ落ちて直ぐ、否応無し、その全てを奪われたセツナにしてみれば、酷く怠慢で、酷く悲しいことなんだろう。……僕も、そう思う。だから、僕はそういうつもりでいるって。それを知っておいて貰えたら、嬉しいと思うよ。……尤も、あの時貴女に言った、僕を憎み続けてくれても構わない、とのそれに、今でも嘘偽りはないし、そもそも、こんなこと口にするつもりはなかったけどね、言っても詮無いと思って。けど、セツナに泣かれて、成程、端から努力を放棄するのは怠慢かと、そう感じたから。…………ま、そういう話。────……うん。お茶冷めちゃったね。淹れ直そうか」
──悪戯っ子のように、チロっと舌を出し、他愛無い話をする口振りを、それでも淡々と続けて。
底の方に、うっすら、琥珀色の液体が留まる白磁のカップを弄びつつ。
言葉の最後、まるで、戯れ言を言った、と言わんばかりに軽く笑って、カナタは椅子から立ち上がった。
「いや、本当に、私はもう……」
冷め切ってしまった紅茶を淹れ替える、と立ち上がったカナタを、ソニアは制そうとしたが。
「まあまあ。いいじゃない。セツナとクレオも、呼び戻すから」
解放戦争当時、己の宿星達に彼が良く見せて歩いた、何処か逆らい難い微笑を拵え彼は、のらりくらりとした態度のまま、台所へ消えてしまう。
それ故。
「セツナー? お茶淹れ直すから、戻っておいでー」
「はーーーい、今行きますー。あ、お茶なら、僕淹れますよーー?」
「え? ああ、いいですよ、セツナ君。何時も何時も、お客様にお茶を淹れて貰う訳には……」
台所の彼と、庭先の二人とで交わされているのだろうそんなやり取りに、聞き耳を立てながら。
ソニアは只、腰掛け続ける椅子の上で、軽く肩を落とした。
だが、語られた話と、その話が齎した雰囲気と、それらが己に与えて来た、言葉にし難い想いに、彼女が一人浸っていられたのは、ほんの僅かの間のことで。
「ムッアーーーーー!」
開け放たれたままだった、居間の扉の向こうから、喜びに弾むようなムササビの鳴き声がして、緑のマントを翻させたムササビ──メクメクが。
「こーーーらーーーーーーーっ!!」
追い掛けて来たセツナの叱り声より、おどけながら逃げ回っているような感じで居間へと飛び込んで、何事? と、伏せていた面を上げたソニアの顔面と、不幸な『邂逅』を果たした。
「………………うっ」
ドタバタ、メクメクの後を追い掛けて来て、数十分前、ミクミクが無礼を働いてしまった時の再現のように、ソニアの顔に張り付いた『彼』と、張り付かれたソニアを見比べ、セツナは呻き声を洩らす。
「……『ロイヤルブルー』の、錆にしてやろうか……?」
──流石に、ムササビに顔に張り付かれるのも二度目となれば、文句の一つも言わなければ、気が済まなかったのだろう。
メクメクを、ベリっと引き離してソニアは、愛剣の錆に、と、物騒なことを口にした。
尤も、彼女としては、冗談のつもりで。
「わーーーっっ。御免なさい、すみません、ソニアさんっっ! 悪気はないんですぅぅっ。……ほら、メクメクも謝るっっ!」
だが、彼女の冗談を、冗談と受け取れなかったセツナは、慌ててソニアよりメクメクを取り戻し、胸に抱きながら、血相変えて詫びを告げ。
「ソニア。真顔で冗談言っても、冗談だと思ってくれる人は少ないよ?」
紅茶を淹れ直す役目をクレオに奪われてしまったが為、手ぶらで戻って来たカナタは、やれやれ、と。
セツナと、ソニアと、セツナに抱かれながらキョトンと首傾げているメクメクを見比べ、苦笑いを浮かべた。