見た目も『形』も判り易く一直線に自分達を攻めてくる、ミューズ市の北側に展開したハイランド部隊の間を駆け抜けるのが最も安全な撤退路、と主張するアップルの言葉に従い、ミューズ地方とマチルダ地方を隔てる関所付近を一先ずの目標として、敵陣をやり過ごしながら、何とか、それ程の被害も出さず戦場を抜け終え、ホッ……と息を付き、肩の力を抜いた途端。

「………………あ、れ?」

クラリ……と、軽く……本当に軽く、セツナは視界が歪むのを覚えて、訝しんだ。

それは、非常に心当たりのある、これまでに幾度も覚えた眩暈と一緒で、おかしいな、今日は本気で無理なんてしてないのに……と、彼は少しだけ強く頭を振った。

グリンヒルからミューズへの行軍は、それなりにゆとりを持たせたものだったし、結局失敗に終わってしまったけれど、ミューズ奪還の為にハイランドと行った一戦は、敵側が早々に撤退したから大した労は要さなかったし、ミューズを脱出する時、輝く盾の紋章を使ったのは確かだけれど、程々に、とのカナタの言い付けを、今日『は』、きちんと守ったし。

…………なのに、何で? と。

不思議で不思議でならなかったけれども、その内にセツナは、自分に原因がないなら、『向こう』かも……、と思い当たり、

「これは不可抗力だよねー。僕の所為じゃないもん…………」

ぶつぶつと呟いて、ゆらゆらと揺れ続ける視界を何とか定めようと、跨がっていた馬の首筋に両手を付いた。

「セツナ」

と、付いた両腕に、誰にも悟られぬように気を遣いながら自身の体重を預け、彼が少し俯いた途端、何時の間にかやって来て、隣に並んだ馬の背よりカナタの声が齎され、

「…………あ、マクドールさん……? 何処行ってたんですか……?」

にこぉ、と。額に僅か汗を掻きながら、セツナはカナタを振り仰いだ。

「ん? 一寸、離れてた。あの状況では殊更、僕のような存在は、いない方が良いからね。敗走ではないけれど撤退であることには間違いないから、出来れば君の傍にいて、手助けの一つくらいしてあげたかったけど。……それよりも、セツナ? 大丈夫?」

向けられた笑みに、カナタも又、にこりと笑みを返して、だが笑みながらも彼は、擡げた腕で己の方へと傾いで来たセツナの前髪を掻き上げ、額の汗を拭い、気遣わし気な目をみせた。

「そんなに酷くないですから、大丈夫ですよ? 僕の所為じゃないみたいですし……。一寸、くらくらする程度です。……うん、平気、です……」

「そう? なら、良いけど……、無理は駄目だよ? ──ここまで来れば、後はもう、グリンヒル方面に引き上げるだけのようだから、傍にいてあげるね」

大丈夫なのかと、無理はしていないのかと、瞳の色で窺ってくるカナタに、セツナが笑みを深めてみせれば、カナタは、伸ばしたままの腕で、緩くセツナの髪を撫で、

「…………相変わらず、一貫性のない……」

ぼそり、独り言を洩らした。

「え? 何がですか?」

「あ、ううん。何でもない。……少し、急ごうか。皆、疲れてるみたいだし。グリンヒルを経由して直ぐ、本拠地に戻らないとならないだろうから」

隣り合わせているとは言え、所詮、馬上と馬上。

小さな呟きにも似た独り言など、セツナに届く筈ない、とカナタは思ったのだが、風に流されたそれは、カナタ的には運悪く、セツナへと届いたようで。

何でもない、只の独り言、と彼は鮮やかな笑みでセツナを誤摩化して、ゆっくりと、撫でていた髪より腕を引いた。

奪還することは叶わなかったミューズ市より撤退し、グリンヒルを経由してセツナ達が本拠地へと戻ったのは、あの戦いの日より十日程が過ぎてからだった。

長めだった行軍の疲れを取るように、翌日一日だけ、セツナはカナタと共に、誠、のんびり時を過ごし、が、次の日から又彼は、あっちへふらふら、こっちへふらふら彷徨いつつ、執務が軍議が盟主としての義務が、と執拗に追い掛けてくるシュウの手より逃れたり、逃れ損ねたり、と相変わらずの日々を送り始めた。

だからカナタは、本拠地へと戻って数日が経ったと或る日、セツナがシュウに捕まったのを見計らって、一人、籐籠をぶら下げながら約束の石版前へと赴き、あの手この手でルックを『口説いて』、グレッグミンスターの己が生家に、瞬きの魔法にて直接送り届けて貰い、先日風邪で寝込んだクレオの様子を見に戻った。

「……完璧だ。珍しい」

瞬きの魔法を唱えている時、それはそれは不機嫌そうに風の魔法使いはしていたから、いい加減な場所へ落とされるかも、と半ば覚悟していたが、本拠地一階広間に居合わせた者達には脅しに見えただろう、彼に対する『徹底的な口説き』が功を奏したのか、送り届けられた場所は生家の玄関口で、至極満足そうに口許を綻ばせながらカナタは、自らの足で潜らなかった、背後の玄関の扉を拳で軽く叩いた。

「……はい? ……あ、坊ちゃん、お帰りなさいませ。…………あの、鍵、掛かってませんでしたか……?」

打ち鳴らされた音が、内側からのノックの音だとは気付かず、暫し後、奥より姿を見せたクレオは、カナタの顔を見遣って、ああ……、と出迎えつつ首を捻り、

「鍵はちゃんと掛かってたよ。大丈夫。──それよりも、クレオ。セツナの所で、分けて貰ってきたから」

そんな彼女へ笑い掛けながら、カナタは片手で携えていた籠を、ひょいっと手渡した。

「あら、お野菜ですか? こんなに沢山?」

「ああ。セツナの所の農園を切り盛りしてる、トニーって農夫の彼は、腕が良くてね。美味しいんだよ、彼の作る野菜。この間クレオ、風邪引いて寝込んだばかりだから。薬代わりのお土産」

手渡された籠の中を覗いてみれば、そこからは、溢れんばかりに、色取り取りの野菜が顔を覗かせており、クレオは、え? と驚いた様子だったけれど、カナタはひたすら笑むのみで。

「夕方には迎えに来てくれるよう、ルックに交渉済みだから。余り長くはいない。……うん、だから、時間も丁度いいみたいだし。お茶にしないか? クレオ」

数時間後には、又出掛けるから、と彼女を促した。

「……ああ、そうですね。何か淹れましょうか。久し振りですしね、この時間に坊ちゃんがこの家にいるのも」

故に、促されるままクレオは、抱えた籠と共に台所へと消え、それより暫く後、二人はマクドール邸の静かな居間に落ち着き、午後のお茶を嗜み始めた。

それぞれ、その日は紅茶ではなく、珈琲が注がれたカップを手に持ち、所謂世間話や噂話という奴に他愛無く興じ、傍目にも、当人同士の間でも、恐らくは、姉弟で過ごす午後の一時、と例えられるだろう風情は長らく続いたが。

「…………坊ちゃん?」

やがて、かちりと小さな音を立てながら、カップを受け皿へと戻しつつ、クレオがカナタを呼んだ。

「何だい? クレオ」

「あの…………。余り、機嫌が良くないみたいですけれども。……何か、ありましたか?」

クレオの様子に、おや、と思い、それでもさり気なく瞳を見返したら、窺うように、そんなことを問われて。

「…………バレた?」

カナタも又、手の中のカップを、かちりと音立てさせながら卓の受け皿へと戻した。