「とは言え、どうしたって過去は過去だし、思い出は思い出だからね。僕だって、あんまりなことは言いたくないけど。……ほら、セツナは、物凄く純真で素直な良い子だろう? おまけに可愛いし。しかも、他人の気持ちに聡い子だから、トランの戦争を知ってる皆が、あの子の前で迂闊にあの頃を振り返ったりしたら、余計なことまで考えてしまうかも知れない。そんなことにでもなったら、『僕のあの子』が可哀想じゃないか」
絞るような声で、微動だにせずフリックが答えた途端、カナタは、にっこり笑顔を拵え直し、ケロリと、『僕のあの子』の部分に妙な力籠め、そう言って退けた。
「……は?」
「ねぇ? そう思うよねえ、フリックだって」
「え? ええっと……。……あー、た、ぶん……?」
「……多分?」
「い、いや。思う。ああ、そう思うぞ、俺だってっ」
「だろう? でも、だからって、僕の時にも宿星だった皆を片っ端から捕まえて、こんなこと言い聞かせて歩く訳にもいかないって辺り、僕としては少し悩ましいんだけど、いざって時には、やらかした相手を僕がイビり倒せばいいだけで。……要するに」
「……要するに?」
「何がどうあろうと僕自身は構わないし、どうでもいいけど、セツナを煩わせるようなことだけはしないように、って話」
その後も彼は、実に軽い調子で、要約すれば「何も彼もセツナの為です」と相成ることを捲し立て、凭れていた扉から背を離して、大仰な伸びをした。
「ん? 何だ?」
と、今の今まで彼が身を預けていたそこの向こうから、ビクトールの声がし、施錠された把っ手をガチャガチャと廻す音もして、
「あ、ビクトール。──それじゃあね、フリック。お邪魔様」
腐れ縁で結ばれた相方のご帰還だよ、とカナタは、笑いながら扉を開け放った。
「ん? カナタ? 何で、お前がここにいるんだ?」
「野暮用があっただけ。大したことじゃないよ。……それじゃ、今度こそ本当にお休み、二人共」
戸を開けてくれたのは同室のフリック以外に有り得ないと思っていたのだろう、目の前に立っているのがカナタだと気付くと同時に、酷く驚いた顔になったビクトールの脇を、「物の怪に行き会ったような顔をせずとも」とか何とか冗談を言いつつ擦り抜け、彼は廊下の向こうに消える。
「…………フリック。何か遭ったか?」
「遭った、と言うか……。遭り過ぎた、と言うか…………」
とっとと去って行ったカナタと、窓辺に腰掛けたまま固まっているフリックを見比べて、何がどうした? と首捻りながら訊いてきたビクトールに、フリックは、ちょっぴり虚ろな目を向けた。
つい先程の出来事を、ビクトール相手に打ち明けるのもどうかと思ったが、彼に『秘密』を共用させて、巻き添えにもしてしまった方が、自分の負担は軽くなる筈、との下心に負けたフリックは、酒場から戻って来た相方に、促されるまま事情を語った。
「……そりゃ又…………。何つーか、偉れぇ目に遭ったな」
「あいつが、わざわざ、ここまで捩じ込みに来た動機が、『セツナ溺愛馬鹿』って処にしかないのは兎も角、それさえ抜かせば、カナタの言い分も言い草も、もっともだとは思うし、悪かったとも思うし、あの頃のカナタを知ってる俺達全員、あいつの気持ちも考えないで、あいつとの再会に何処か浮かれてるのかも知れない、とかも思うんだが……。何と言うか、こう……上手く言えないんだけれども……」
「……お前の、その、上手く言えないことの大体は解る。気持ちも。言ってることと、やってることが、真逆だからな、カナタの奴」
背筋こそ丸め加減になったものの、相変わらず窓辺に腰掛けたままのフリックの打ち明け話に、だらしなく寝台に腰下ろして耳傾けていたビクトールは、成程……、と、したり顔で頷き、
「やっぱり、お前もそう思うか、ビクトール……?」
何処か情けない感じの上目遣いを、フリックはしてみせる。
「今のあいつは、昔を知る俺達の目には、どうしたって、あの頃とは何処か違って見えるし、何かが変わっちまったようにも思える。……実際、そうなんだろう。三年前のあいつと今のあいつとじゃ、何処かが違ってて、何かが変わってて。挙げ句、他人をからかって歩くのと、お気に入りになったセツナを『溺愛』するのだけを生き甲斐にしてる姿ばかり見せ付けられりゃ、あの頃の思い出や、あの頃そのものを、他ならぬカナタに汚されたような気になっちまうことだってあるんだろう」
「……そうだな。少なくとも、俺はそうだった……んだろうし……」
「だが、カナタの言う通り、あいつはもう、俺達の軍主じゃない。俺達に戴かれる必要も義務もない。『全てはセツナの為に』が動機だとしても、あいつがお前に突き付けたことは、間違いとは言えない。…………だってのに、あの頃のあいつを彷彿とさせる姿を見せ付けられりゃあな。言ってることとやってることが真逆だろ、って突っ込みたくもなるし、却って、あいつ曰くの『過去の亡霊』に、あの頃と同じ眼差しを注ぐのを止められなくなる。あいつのことを、綺麗なだけの思い出にすら出来ちゃいない俺達だから、余計に」
困り果ててしまっている風なフリックの面を横目で見て、いい歳こいた大の男が、んな情けねえツラ見せんな、と眉を顰めながらも、ビクトールは口を閉ざさなかった。
「…………ああ。俺も、そう思う」
「確かに、あいつはもう、俺達の軍主じゃない。今の俺達が戦ってるのは、トラン解放戦争じゃない。でも、あいつは、あの頃の俺達の軍主だった。それは、何がどう翻ったって変わらない。消えてなくなりもしない。…………ま、でも、それでいいんじゃねえのか? あいつの言う通り、それを外に洩らさなけりゃ、それで。何をどう想おうが、俺達の勝手だ。だからって、セツナを蔑ろにするなんてこたぁ有り得ねえんだし。セツナも、カナタの『同類』だしな。昔と今の区別さえ付けときゃ、これ以上は何も言いやしねえだろ。…………それに」
「それに? 何だよ」
「カナタもセツナも、天魁星だってことだけは、どうしたって揺るがない。軍主じゃなくなっても、盟主じゃなくなっても、あいつらが、俺達の導き手だってことだけは。……カナタにも、セツナにも、すまないとは思うが。あいつらは、そこからは決して逃れられねえし、逃れるつもりもねえだろうし。俺達には、あいつらを、そこから逃してやることは出来ねえんだから。そこんとこの責任は取って貰ったって罰は当たらない。例え、あいつらには不本意だろうともな。二人共に、自分で、その運命を選んだんだから」
けれども、そこからは、声音も風情も、何処か軽い感じに移した彼は、語りの締め括り、人が悪そうに笑って、序でに肩も竦めてみせ、
「要するに、あれか。何も彼も、バレないように上手くやれ、ってことか」
深く考えるのも、思い悩むのも、止めた方がいい気がしてきた、とフリックは、熊に能く似た風貌の相方でなく、窓の外の夜空を見上げた。
「つーかな。あいつの、『セツナ溺愛馬鹿』な部分にさえ触れなきゃいいだけの話じゃねえか?」
生真面目に悩んでも無駄だし虚しいぞー? と言いながらも、ビクトールが、頬に哀愁を掠めさせたのには気付かず。