若干高台風になっている場所から見下ろした関所付近は、繁る森の緑に遮られて、少々霞んで見えた。
けれど、地面に腹這いになるようにして見遣った先の様子を窺うことは充分出来て、白を基調とした騎士服に身を包んだ男達が、何処となく退屈そうに番をしているのは良く判った。
その、誠に狭い風景だけを切り取って鑑みるなら、戦時下であることを伝えて来る風情は何処にも感じられなく。
本当に、お散歩になっちゃったかなあ……、と誰にも悟られぬように肩を竦めつつも安堵を覚え、セツナは、服に付いた土埃を払ってより立ち上がった。
「のどかですねー」
「んー……。まあ、そうだね。のどか、かな」
風景に背を向け歩き出しながら、ほえっと彼が囁けば、ほんの少しばかり、同意するのは……、とでもいう風な感を見せつつも、にこりと、一応の同意をカナタも示し。
「どっかで、飯でも食って帰るか?」
ビクトールは、誰よりも能天気な一言を吐いた。
森中の獣道を分け進みながら彼等がやり取りを交わすその姿は、先程、緑の霞の向こうに垣間見た、切り取る限り、戦時中とは思えぬあの風景に良く似ていて、だから、道案内を続けている兵士達は全員、彼等三人に釣られたかのように、思わずの忍び笑いを零した。
「……………………待って」
だが、一行が醸し出していた穏やかな雰囲気が保たれたのはそこまでで、辿っていた獣道の直中にて、急にカナタが足を止め。
顔色をも変えた。
「……どうかしました?」
マクドールさんが足を止めたってことはー……と、その理由を薄々察しながらセツナも、カナタがしているように周囲の気配へと気を配ってみたが、今一つ、『鮮明な何か』は彼には掴めなくて、あれー? と首を傾げたけれど。
「何かいる」
面を引き締めたままカナタは、直ぐそこにある深い茂みへと視線を流した。
「何か……? マクドールさんが、『何か』なんて言うってことはー。……人じゃないんですか?」
「うん。多分、人ではない……かな。魔物か、さもなければ獣か……。……まあ、その何れだったにしても、それ自体はね。でも、直ぐそこが関所なのに、余り騒ぎは起こしたくないなあ」
「ああ、そですねえ……。でも、襲い掛かられたら、そんなことも言ってられませんし」
「そうだね。どうするにしても、取り敢えず、先を急いでみようか」
「はーーい」
立ち止まったカナタとセツナの会話は何処かのほほんとしていて、が、二人の表情も、一寸した仕草も、傍目にも判るくらい警戒の色を強めていたので、ビクトールは固より兵士達も又、息を詰め、身構え。
カナタの、取り敢えず……、の言葉に従って、止めた足を動かし始めたら、それを待っていたとばかりに、深い茂みがガサリと激しく鳴った。
「……うっわっ! …………って、え? 熊……さん……?」
ザワザワガサガサと、茂みを象る枝や下草を擦りながら獣道へと飛び出して来たのは一匹の熊で、へっ? とセツナは、目を丸くした。
「あー、季節が季節だからね。冬眠の為の支度中なのかな。……さもなくば……」
「……さもなければ、何です?」
「ビクトールのことを、同族と思ったか」
只でさえ大きく丸い瞳を、より一層大きく丸くして、熊さんかー……、と、トンファーを振るうべきか否か悩んだ風なセツナの首根っこをグイっと掴み引き摺りながらも、カナタは軽口を叩く。
「誰が誰の同族だ」
「ビクトールと、森の熊さん」
「…………止めてくれ、その、森の熊さんってのは……。お前にそんな言い方されると、気色悪くていけない……」
何時もと変わらぬ軽口に、げんなりとしながらビクトールは、セツナを己が背へ隠したカナタの、更に一歩前へと進み出た。
「どうしましょうか、マクドールさん」
「どうしましょうか、って?」
「ビクトールさんのお友達の、森の熊さんです。ほら、中々襲ってきませんから、僕達のこと食べる為に出て来た訳じゃないんでしょうし。熊さんが襲って来る気がないなら、問答無用で倒しちゃうのもナニかなー、と。別に僕達、食べる物に困ってませんから、要らない殺生って奴になっちゃうのも嫌ですし」
が、カナタの背中から、ひょこっと顔だけを出してセツナは、「一寸待ってー!」とビクトールを止め。
「……まあ、一理あるね。このまま襲って来ないなら、の話だけど」
「ええ、それは勿論。熊さんが、『お友達』に見切りを付けちゃったら、『その後』には美味しく頂きます。命は粗末にしちゃいけないです」
「じゃ、取り敢えず、視線で威嚇でもしてみる?」
「あはー。猛獣使い張りの一言ですねー、マクドールさん。でも、それが一番かもですね。……じゃ、そういうことで」
「了解」
セツナの言いたいことが判らないでもないとカナタは、『ビクトールの友人』を見据え続けていた視線を一層強め、セツナは、この隙に逃げちゃおうと、兵士達を促した。
カナタの瞳の強さか、はたまた纏う雰囲気か、その何れかに気圧されたのか、それともそうではないのか、熊はジリジリと後退りを始めて、故に、その真反対へと後退し始めていた兵士達もセツナも、それぞれの意味で、ほっと胸を撫で下ろし掛けたけれど。
「あ、駄目っぽい」
急に気が変わったのか、黒い毛並みの獣は、突如猛然とカナタへ突進し始め、仕方ないなと彼は、すっと棍を構え、……が。
「…………セツナっ!」
舌打ちをしながら、声を張り上げ振り返った。
「えっ……? …………あっ!」
酷く不機嫌そうなその声に、何事かとセツナがカナタを見返せば、その片方の瞳でしか、彼が己を見遣っておらぬことに気付いて、え、と。
カナタの、もう一つの瞳が見遣る場所へと首を巡らせば、そこには、剣を構えつつ茂みの中から飛び出して来た、ハイランドの軍服を着込んだ男達と、マチルダの白騎士の制服を着込んだ男達の姿があった。
「ビクトールさんのお友達に、気を取られ過ぎちゃった……?」
だから。
現れた敵の姿を認めて、あらら……、と軽い調子で呟きながらもセツナは、少々焦った風にトンファーを構え、ハイランド兵士達との攻防を始めた。
「ビクトールっ、セツナをっ!」
だが、眼前の熊の相手をもしなくてはならないカナタは、彼の傍らへと進むことが直ぐには出来ず。
「判ってる!」
「盟主様、こちらへっ!」
「僕は大丈夫だから、皆、自分のことをっ!」
掛けられた、カナタの声に答えるビクトールのそれや、盟主を呼ぶ兵士達の叫びや、セツナの大声や。
「間違いない、同盟軍の小僧だっっ」
「捕らえろ!」
「いいや、殺した方が早いっっ!」
セツナを『セツナ』と確信した敵兵達の怒号が入り交じって、つい先程までのどかだった筈の森中は、一転、血塗の混乱に包まれた。