遭遇してしまった熊に気を取られて、近付いていた男達の気配に気付けなかったのか。

それとも、近付いて来ていた男達の気配を、たまたま茂みの中にいた熊の気配と取り違えたのか。

それはもう、今となっては誰にも判らない。

唯一つ言えることは、セツナも、カナタでさえも、眼前に飛び出して来た肉食獣に気を配っていたが為、敵の襲撃に気付くのが一歩遅れた、ということだけだ。

故に恐らく、この混乱を一言で説明するなら、間が悪かった、としか言えぬのだろう。

だが、その間の悪さの所為で、セツナ達が苦戦を強いられる羽目になったのも又事実で。

「ソウルイーターっ!」

──一刻も早く熊を倒し、セツナの加勢をしなければと、右手を高々と掲げたカナタが、魂喰らいを呼び出した時。

カナタには背を向けて戦っていたセツナも又、輝く盾の紋章を呼び起こそうと、右手を掲げている最中だった。

────……せよ、輝く光!」

そうするのが、この少々苦しい戦闘を建て直す、最も効率的な手段に彼には思えたから。

自らの判断に従い彼は、無防備な瞬間が生まれるのを覚悟の上で、その手に宿る紋章の力を呼び起こす為の詠唱を唱え終えた。

聴く者によっては呪詛にも思えるやも知れぬ、長くも短くもない詠唱を吐き出していた唇が閉ざされた瞬間。

辺り一体は緑玉石色の光に包まれ、現れた光に溶け込むようにしながら、セツナはトンファーを握り直して。

「盟主様!」

呪詛のような。旋律のような。

曖昧な調子の詠唱が消えるのを待ち侘びていたかのように、一人の兵士の声が飛んだ。

──ハイランド兵士の一人が握った、右手を掲げ、微動だにせず詠唱を唱えていたセツナの背を深々と貫く筈だったつるぎは、盟主様、と強く高く叫んだ兵士の体に阻まれ、文字通り、盟主の盾となった兵士の膝が、獣道の土に触れるよりも早く、セツナを襲う筈だった剣の持ち主も、その他の敵兵も、駆け寄ったカナタの棍の一閃と、セツナが放った『輝く光』の魔法にて命を落とした。

だから辺りには静寂が戻り、ズルリと崩れた、盾となった兵士の両手をセツナは掴んだが。

もう、この世の何処にも、彼を救う術などないのは、誰の目にも明らかだった。

「……………………盟主様……」

「……なぁに……?」

か細い虫の息でセツナを呼び、その右手を握り返す兵士に、『優しく穏やか』に、セツナは応える。

「……俺は、本望ですから……。だから…………」

「…………うん」

「だから……。だか、ら………………──

けれど兵士は、想いの全てを告げることなく、セツナの面を見上げ、輝く盾の眠る右手へと視線を落とし、再び眼差しを持ち上げる途中で、瞼を閉ざしこと切れた。

「……………………『お休みなさい』」

何処かにはあるのだろう死出の国、そこへ向かった彼へ、セツナは低く告げ。

「……『お休み』」

その傍らに黙って沿っていたカナタは、セツナの『約束』に倣うように、同じ言葉を繰り返した。

跪いた折に付いた泥も払わず立ち上がった時、本当に小さく細やかに、セツナが右手を輝かせるのを見付けた彼は、一瞬、物言いた気に眉を顰めたが。

結局、何も音にはしなかった。

同盟軍本拠地本棟の、一階奥に作られた墓場の中で、弔いの鐘が鳴り響くのは何時ものことで、その日の午前、やはり響いた鐘の音に、何かを言う者は少なかった。

──良いことではない。

……弔いの鐘鳴り響くのが日常であることを、誰もがそのように受け止めてはいるけれど、だからと言って、ハイランドとの戦に決着が付かぬ限り、それは『日常』であって、今は未だ、その事実を捕まえ云々言うのは詮無いことだと、やはり、誰もがそのように受け止めているから、その日の、弔いの鐘が鳴り響く以外の日常も、何時も通りの賑やかさだった。

グリンヒル・マチルダの関所近くの森で、セツナを庇い命を落としたあの兵士は、天涯孤独の傭兵で、親しい戦友だった者達は、未だ森の村に駐屯中で、野辺の送りに並んだ者は、セツナとカナタとビクトールに、シュウと、傭兵達との馴染みが深い、酒場の女将のレオナ、それと、幾許かの者達で。

呆気ない程簡単に、天涯孤独だった傭兵の葬儀は終わり、人々は常の場所へと散って、僅かの時が流れた昼下がり。

あの日のように、セツナは、中庭に敷き詰められた緑の芝の上で、彼を慕って止まない幼子達へ、例の絵本を読み聞かせていた。

むかし、むかし、あるところに。

とても体がおおきくて、とがった頭をもっている、けれど、きれいで青い魚たちが、たくさんおよいでいる海がありました。

その海のちかくにすむ人たちは、きれいな青い魚たちを、『かみさまのさかな』、とよんで、たいせつにしていました。

『かみさまのさかな』をたいせつにすると、人たちはしあわせにくらしていけると、そんな、いいつたえが、その海のちかくでは、むかしから言われていたからです。

だから、人たちは、『かみさまのさかな』をたいせつにしていました。

けれど、ある日。

『かみさまのさかな』のいる海のちかくにすんでいる人たちの村を、とても大きな、海のなみがおそいました。

だから、人たちは、大きな海のなみの中で、それでもおよいでいる『かみさまのさかな』へ、大きなこえで言いました。

むかしから言われている通り、『かみさまのおつかい』の『かみさまのさかな』を、たいせつにしてきたのに、どうして村は、大きななみにおそわれるのですか、と。

すると、『かみさまのさかな』はこたえました。