それから三日。
遠征先で合流する筈の盟主が、実は風邪で寝込んでいると、兵士達に知られるのは、些か具合が悪いので。
歩兵隊の頭領の一人、と云う立場にもあるビクトールが、伝令の役目を負って、グリンヒルに程近い、小さな村の宿屋へと顔を出した。
「どうだ? 具合は」
ノックの音よりも早く、セツナ達が逗留している部屋へと踏み込み、ビクトールは、カナタとホウアンの顔を見比べる。
「…………思わしくない」
「そうか……」
掛けられた声のトーンと気配で、やって来たのが何者なのかを知り、振り返りもせずカナタは答えた。
「随分、治りが遅せぇな……」
「お疲れも、あったんでしょう、恐らく」
デュナンの湖畔を発って三日。
完治しないまでも、そろそろ、熱くらいは引き始めても良い頃合いなのに、相変わらず、高い熱に苦しんでいるセツナを見遣って、ホウアンが暗い声を出した。
「処で。ビクトールが来たってことは?」
「……そう云うこった。そろそろ、着くぞ、家の連中。後半日ってとこか。だが、これじゃあな……」
そこで漸く、セツナから目を離し、カナタは傭兵を見上げ。
逆に傭兵は、眠っているセツナの顔を覗き込んだ。
「すみません、私は一寸、薬を煎じて来ますから」
厳しい顔を崩さない、カナタとビクトールの二人へ、ホウアンが声を掛ける。
戦の、複雑な話が始まるのかも知れぬと、医師は気を遣ったのかも知れなかった。
「風邪だけ、か?」
────序でに、と。
水とタオルが入れられていた器を片手に立ち上がった、ホウアンの気配が、宿屋の廊下の向こうへと消えるをの待って。
ぼそり、ビクトールが云った。
「……嫌なことを、僕に言わせるね」
「…………成程」
「何処まで、気付いてる? ビクトール」
「何にも。俺は何にも、気付いちゃいねえよ。唯、な。セツナの右手にあるモンが、セツナにとっては余り、良い物じゃあねえんだろうな、って程度だ」
洩らされた台詞に、カナタが僅か、表情を変えれば。
ビクトールは空惚けた顔をして、俺は何も知らない、と告げた。
「気付いてるじゃないか、充分」
故にカナタは、苦笑を浮かべる。
「直ぐに治る、風邪だと思ってたんだけど……。一寸ね。それだけじゃないみたいでね。…………疲れてるんだよ、この子だって。疲れない、訳がない……」
「そうだろうな……」
苦笑の後に呟かれた、重々しい言葉に。
ビクトールも又、声のトーンを落とした。
「……ねえ? ビクトール」
低まった、傭兵の声を合図に。
セツナの枕辺に立ち尽くしていたカナタは、ギ……と音を立て、寝台の端に腰掛け。
汗に塗れる、セツナの髪を撫でながら、傭兵を見上げた。
「何だよ」
「この子は、望んでこうしてる。自分の意志でね。だから僕は、セツナに何も云うつもりはないし、何も云わないと約束したし。固より、僕はこの戦争に何のしがらみもないからね。最初から、何かを言葉にするつもりはないけど。必要以上のことを、僕はこの子にさせるつもりなんてないよ。例え、あの正軍師殿が、何と思おうともね」
「…………そう……なんだろうな、お前は」
「この子が無事なら。僕はそれでいい。この子が生きているなら、僕はそれでいい。………………さて、どうするべきかな」
「……あんまり、派手なことすんじゃねえぞ」
「ま、程々にしとくよ」
「お前の程々、ねえ…………」
見上げて来た、漆黒の眼差しの持ち主が。
淡々と語ったことに、やれやれ……とビクトールは、内心で溜息を付いた。
────薄々、察してはいた。
カナタが、セツナを『遊びに連れ廻す』理由も。
盟主の執務を『ないがしろ』にさせようとするそれが、セツナが倒れる回数が増え始めてより、拍車掛かったことも。
…………たった今、当人が告げた通り。
この戦争に、何のしがらみも……否、セツナ、と云うしがらみ以外を持たぬカナタは、本当に、『溺愛』中の少年のことしか、考えていない。
そのことしか、念頭に置かない。
それ故。
カナタはセツナに、必要以上のことをさせようとはせぬし。
恐らく、シュウさえも気付いてはいないだろうが、自分が矢面に立てば良い、と云った発想に基づき、率先してセツナを、正軍師のお小言より『庇う』。
カナタのそんな姿はまるで、傅く者のようだ。
セツナだけを大切に守り、仕える、傅く者のよう。
それが、悪いことであると、ビクトールは思わないが、カナタの、その『想い』の根源が、何処にあるのだろう……と考える度、ビクトールは何故か、ゾッとするような心地になる。
……現在のカナタの、上っ面だけを眺めていれば。
数日前、シュウが洩らしていたように。
今のカタナの有り様からは、神秘、と云う言葉さえ、人々に思い起こさせながら、トラン解放軍を率いていた人物は想像出来ない。
在りし日のカナタを知らぬ者には、彼にまつわる数多の逸話が、眉唾物に思えても、致し方ないのだろう。
だが、ビクトールは知っている、在りし日のカナタの姿を。
人々に、『夢』を見せて止まなかった……そして、今でも『夢』を見せて止まない、カナタの姿を。
──ビクトールは。
カナタが、『賢過ぎる質』であるのを、良く知っている。
故に、トラン建国の英雄、と云う肩書きを持つ己が、『セツナ』に一歩踏み込み過ぎれば、トランにも、同盟軍にも、不協和音しか齎さぬことを、カナタは充分弁えている筈であるのも、ビクトールには簡単に推測出来る。
なのに。
踏み込み過ぎるか過ぎないか、の、限界点にてカナタは彷徨ってみせる。
その理由が、傅く者のように接してみせる、セツナと云う少年にカナタが注ぐ、何らかの想いにあると云う事実は……もう、天を仰ぐ以外の行動を、ビクトールに取らせなかった。
そして、そんなカナタの。
「さて、どうするべきかな」
……との台詞に傭兵は、溜息しか零せなかった。