「……ここ…………」
ふっと気付いた時。
辺りには医務室独特の匂いが漂っていて。
セツナの部屋で倒れた筈なのに、ここは医務室なのか? と、ゆるゆる、カナタは起き上がった。
「気付かれましたか? マクドールさん」
緩慢に起き上がった彼へ、傍らから声が掛かり。
その声は細やかなトーンだったのにも拘らず、やけに大きく脳裏に響いて、びくりとカナタは身を震わせた。
「……あ……ヒルダさん……? それに、トウタも……」
今のカナタには、うるさい、と叫び出したくなる程のボリュームに聞こえる、細やかな声の主へと振り返り、それが、宿屋の女主人ヒルダの物だと知って、何とか、カナタは気力だけで自身を制する。
「駄目ですよ、起き上がっちゃ。横になられてて下さい」
上半身を起こしたカナタを、近寄って来たトウタが嗜めた。
トウタが歩いてくる音、その声、それらも又、カナタの脳裏には、殊の外大きな音として響き、彼は、顔を歪めてしまいそうになったけれど。
「平気……。それよりも、セツナは……?」
無理矢理に笑み、彼は付き添いだったらしき二人へ、セツナのことを尋ねた。
「ホウアン先生が、付いてらっしゃいます。マクドールさんの方が症状軽かったんで、僕とヒルダさんが……。──上の方がどうなってるのかは、未だ一寸……」
すればトウタは、悲しそうに俯き。
ヒルダも、何も云ってはくれなかったので。
「そう…………」
ゆらり、と、カナタは医務室のベッドから抜け出て、歩き出す。
「あ、マクドールさんっ!」
「え、マクドールさん、駄目ですよ、起き上がっちゃっ! 体に障りますっ」
「……大丈夫。本当に、大丈夫だから。心配しないで、トウタ」
余り、確かとは言えない足取りにも拘らず、医務室を出て行こうとするカナタを、ヒルダの悲鳴が追い、トウタが縋った。
「つっ…………。──大丈夫。大丈夫だから…………」
つい……と縋ったトウタの手が触れた途端、又、びくりとカナタは体を震わせたが。
鮮やかな笑みを湛えて、彼は、トウタとヒルダを振り返り、医務室を出て行った。
カナタが意識を取り戻した時は既に、もう、夜半近かった。
そんな時間だと云うのに彼は、紋章屋のジーンの元を訪れ、店仕舞いを終え、就寝しようとしていた彼女に、一つの頼みごとをし。
そうしてより、城の最上階にある、セツナの部屋を目指した。
「カナタ、お前、大丈夫なのかっ?」
「うるさい、フリック……」
エレベーターを使い、その階へ姿見せたカナタを、盟主の部屋を守っていたらしいフリックが見付けたけれど。
フリックの、驚いたような問い掛けは、うるさい、の一言で一蹴され。
「……おい、カナタ。無理すんなよ。セツナが心配なのは判るが」
項垂れたフリックと共に、そこを守っていたらしいビクトールに、彼は苦笑を送られた。
「僕のことは、どうだっていい。それよりも、セツナは?」
フリックのことを、うるさい、と云ったのは、馬銭子の作用の所為であって、決して、フリックの声のトーンが大きかったからではないが、うるさい、ってお前、心配してやってるのに、とげんなりしたフリックに、理由を語る暇はない、と、彼はビクトールの面を仰ぐ。
「ホウアンやナナミ達が診てる。さっきまで、シュウ達もいたし、ルックもいたんだが……」
見上げて来たカナタに、ビクトールがそう云えば。
「ルックは、そろそろ限界だった?」
「……良く判るな、お前」
「判るよ、僕達が飲んでしまったアレが、馬銭子だったならね、そうなる……」
会得したように、カナタは頷いた。
──馬銭子の毒は、全身に激しい痙攣を齎し、それはそれは酷い悲鳴を、放たせる。
なのに、意識ははっきりとしていて、その苦痛は堪え難いものと云われ、取り込んだ毒性が薄まっても、些細な振動や音に敏感に反応し、痙攣発作が起きる。
その発作は、何時間も続くことがあって、疲労し切り、意識を失い、死に至る場合も多々ある。
カナタは、そのことを、知っていたのだろう。
だから、毒を飲んでしまったセツナの苦痛と疲労を軽減させる為に、ホウアンが、医療的治療を行うと同時に、眠りの魔法か、体力を回復させる魔法か、その何れかを、セツナに施すことも、判っていたのだろう。
午後の茶の時間から、既に数時間が経った今。
現状、この城にいる宿星達の中で、最も魔力の高いルックと云えども、そろそろ、それらの魔法を唱え続けるには、限界が来ているだろうことも。
「他に、誰かに魔法は唱えさせていないのかい?」
──ビクトールの反応から、己の考えが正しいことを知って。
カナタは問いを続けた。
「それが……。ホウアンも、シュウも、色々と考えたらしいんだが。公にしちまって、兵士達に動揺が走るのはマズいし。出来ればこの話は、上層部の中だけで食い止めたいってのがあるみたいでな。だが、ここの警備は固めておかなきゃならねえってんで、早々、どいつにもこいつにも、魔法唱えさせてへばらせる訳にゃいかねえし……。マイクロトフやカミュー達は、昼間、この城を訪れてた行商人達の行方を追って、出てるしな……。シュウも今は、そっちの方に追われてる」
「成程……」
「今は、ルックの代わりにナナミが頑張ってるんだが。それもそろそろ、限界だろう。ナナミにしたってルックにしたって、底抜けに体力がある方じゃない。──スタリオン走らせて、グレッグミンスターのリュウカンに、特効薬を……ってな、それは頼んであるらしいが……。スタリオンが帰ってくるまで、セツナの奴、持ち堪えられるかどうか……」
カナタも又、セツナ程ではないにしろ、同じ症状が出ている筈だと。
可能な限り、低く穏やかに、抑揚を押さえて語るビクトールに、目線だけで礼を送り。
「判った」
カナタは、セツナの部屋の、扉を開けた。
「…………ホウアン先生」
足音を忍ばせ、立ち入った室内には。
ホウアン、ナナミ、シーナ、アップル、この四名の姿があったが。
医師の名だけをカナタは呼んだ。
「……え、マクドール殿……? 貴方、ここで何を……。駄目です、貴方も未だ横になっていらっしゃらないとっ」
静かに掛けられた声に、ホウアンが振り返り、目を丸くした。
「──マクドールさんっ!?」
青白く、思い詰めたような顔色をして、ホウアンの隣にて、義弟の枕辺に跪いていたナナミは、泣き声に近い声を絞って、カナタへと駆け寄り。
「おい、カナタ、大丈夫なのか?」
「カナタさん、御無理は……」
シーナもアップルも、渋い顔をして、カナタを見た。
「……御免、ナナミちゃん…………」
義弟の容態に対する、不安や心配で、胸が一杯だったのだろう、駆け寄り、縋り付いて来たナナミの体を受け止めながらも、カナタは眉間に皺を寄せた。
「あ、御免なさい……」
「…あーあ、大丈夫じゃないじゃん、お前」
はっと気付いたナナミが身を離した途端、フラ……っと傾いだカナタの肩をシーナが支え、溜息を付いた。
「…………僕なら、大丈夫。……それよりも、ナナミちゃん? 顔色、悪いよ? セツナのこと、心配なのは判るけど、君まで倒れちゃったら、セツナが目覚めた時、心配するから。少し、休んだら?」
肩に添えられたシーナの手を、悪いね、と微笑みながら避け、カナタはナナミを向き直った。
「でも…………。セツナ……。セツナ放って休むなんて……」
「だけどね、休まないと。──明日も未だ、セツナはこのままかも知れない。皆が交代で休まないと、誰も、セツナへの魔法が、放てなくなってしまうよ?」
「判ってる……。判ってるけど、でもっ! ……マクドールさんこそ……」
「云ったろう? 僕は、大丈夫。だから……ね? 君が回復した頃、ちゃんと起こすから」
「……………はい。……なら、少し、だけ……」
苦痛を堪えながらの笑みを拵えている割には、有無を言わせぬ程の迫力を以て云ったカナタに。
ぽすん、と彼が義弟に良くしているように、軽く頭を撫でられ。
ナナミは、義弟の傍に未だいるのだと言い張ることが出来なくなって、弱々しく頷いた。
「アップル。ナナミちゃんに、付いててあげて」
じゃあ……と。
とても後ろ髪を引かれている顔をしながら、辿々しい足取りで、その部屋の扉へと歩き出した彼女を見送り、アップルにはナナミの付き添いを、カナタは『命じる』。
「判りました。──行きましょう、ナナミちゃん」
「……うん……」
この城にはかなりの数居る、三年前のトラン解放戦争経験者の一人でもあるアップルは。
カナタが、命ずるように言い出したことに、楯突いてみても無駄だ、と云うのを、重々体感しているから。
何か云いたそうに、だが、それを言葉にはせず、そっと、ナナミの背に手を添えて、共に部屋を出て行った。
「…………マクドール殿……。私は医師として、貴方がこの場に付き添うのを、認める訳には行きませんよ」
ナナミとアップルが辞して行くのを待って。
ホウアンが、改めて、カナタを見遣った。
「僕は、大丈夫だ、と、そう云った」
けれどカナタは、先程ナナミを諭した時のような、強い意志を瞳に乗せ。
「本当なら、もっと人手が欲しいとか、色々、云いたくはあるけれど。シュウ軍師の言い分は、良く判るからね。ルックやナナミちゃん達が限界だって云う今、事情を知ってて、且つ、長時間魔法を放てる人間なんて、僕くらいだろう……?」
にこっ、と笑って彼は、部屋の傍らに寄せてあった椅子を一つ引き寄せ、たっぷりと時間を掛けて、そっとそこに腰掛け。
「しかし……。だからと云って……──」
「──医者の貴方に、この言い方は、とても気に食わないそれだとは思うけど。僕にとってはね、僕の命よりも、セツナの命の方が大切なんだ」
「……マクドール殿っ」
云いたいことを言い放ち、それを受けたホウアンの、抗議の声に、もう耳も貸さず。
「シーナ。今は未だ、セツナ、眠ってるみたいだから。気が付いたら起こして」
黙って自分を見詰めてくるシーナへ、ちろっと視線を流し。
カナタは、寝台の縁に、そっと身を預けるようにして、さっさと目蓋を閉ざした。
「マク……──」
「──ホウアン先生。無駄だって。こいつがこうなっちゃったら。他人の云うことなんて、これっぽっちだって聞かないって。好きにさせときなよ。それが一番、いい」
浅い感じの呼吸を始めたカナタに、ホウアンは再度、何かを云い掛けたが。
未だ、瞳閉ざしたカナタの横顔を、じっと見詰めながら。
シーナが、医師を止めた。