カナタの体内にある毒も、決して、消え去った訳ではないから。

シーナに揺り起こされるまでもなく、眠りの魔法の効力が切れたセツナが、軽く呻き出した声を、耳元で叫ばれた絶叫程のトーンに感じて、ビクっとカナタは緩い眠りから目覚めた。

この部屋にやって来て、眠り始めてより、未だ、それ程は時が過ぎていないのを、感覚で感じながら。

「盟主殿っ」

セツナの顔を覗き込んでいるホウアンの隣に、カナタは立つ。

「セツナ? セツナっ」

低い音量だった呻きが、どんどんと大きくなって、次第に酷くなって行く痙攣を見せ、体を仰け反らせるセツナを、カタナも又、覗き込み。

両膝をベッドの上に付いて、反り返るセツナの身を押さえ込むと彼は、素早く、口の中で、眠りの風の詠唱を唱えた。

先程、ジーンの所に寄って、左手に宿して貰った風の紋章が輝き、辺りを照らし、ふわりと風が起こって。

風と光が消えると同時に、大きく、苦し気に見開かれていたセツナの瞳が閉じた。

「……前に、回復の呪を唱えてから、どれくらい経つ……?」

耳元で聞いた、今のカナタにとっては轟きに等しいセツナの悲鳴、押さえ込んだ体より伝わった衝撃、万全でないないのに唱えた魔法。

それらに、激しい苦痛と強い眩暈を与えられ、気力をこそげ取られる感覚を知った所為で、額に汗の珠を浮かばせ、彼はホウアンを振り仰いだ。

「二時間程前です」

「そう……。なら、未だつかも知れないけど……でも……──

医師の回答を待ち、ほんの僅かだけ悩み。

動きを止めたセツナの体を、未だ押さえ込みながら、念の為、と癒しの風の魔法をも唱え。

「これと、水の紋章で、どれだけイけるかな…………」

ほっ……とカナタは、溜息を付きながら、今の正確な時間を知る為、室内に目を走らせた。

霞む視界を動かして探した時計の針は、午前一時を指している。

──確か、セツナが倒れたのは、午後四時近かった筈だから。

そこから、一時間後にスタリオンがこの城よりグレッグミンスターへと出立したとして。

多分、この緊急の事態だから、ビッキーではなく、ルックがスタリオンを直接、グレッグミンスターへと飛ばしただろう。

とするならば、所謂夕餉の頃合いに、俊足のエルフはリュウカンに面会が出来ている筈で、そこから薬を調合しても、リュウカンの腕なら──材料さえ揃っていれば、の話だが──、待たされたとしても三時間程度だろう。

トラン湖を高速艇で渡り、北の関所経由の国境までの道程は、多分……スタリオンの足なら、四時間……は掛かるまい。

ならば、真夜中の峠道を越える、と云う事態を計算に入れても、夜明けまでに俊足のエルフはきっと、この城に戻ってくる筈。

────瞳の中で揺らぐ、時計の針を眺めながら。

カナタは、それだけを計算して。

スタリオンが帰ってくるまで、後四時間……いや、もしかしたら、五時間。

それだけの時間を耐え切らなければ、と。

震えそうになる自らの体を戒める為、彼はきつく、唇を噛んだ。

紋章が齎してくれる、魔法、とは、それはそれは、便利な力で。

例えば治癒の呪を唱えれば、傷付いた体を癒し、その傷跡を跡形も無く消し去ってはくれるが。

人間の病までは治してくれない。

中には、毒を受けた、と云ったような事態を癒してくれる呪文もあるが、紋章が毒を体内より消した後も、熱や、けだるさは残る。

だから、この城にある毒消しが、馬銭子に効かないこの事態の中で、ルックやナナミやカナタが、セツナへと魔法を唱えてみても、それは所詮、その場凌ぎであり、疲弊や苦痛を和らげるものでしかなく。

根本的な解決にはならない。

だが、施さぬよりは、施した方が遥かにマシだから。

ホウアンも、もう、渋い顔をするだけで、カナタが魔法を唱え続けることを、止めようとはしなかったし。

カナタも、セツナが目覚める度に、詠唱を放ったけれど。

段々と、齎される苦痛によって、セツナが目覚める間隔は、短くなりつつあった。

「ホウアン先生?」

「……魔法で眠らせるにはもう、限界のようですね……」

午前一時から二時の間は、一回で良かった眠りの風の詠唱が。

午前二時から三時に掛けては、二十分置きに必要になったのを受け、カナタがホウアンを振り返れば。

医師の表情は、厳しいものになった。

「…………やり方を、変えよう。もう、眠り続けること自体に、セツナが疲れを感じているのかも知れない。どうしたって、限界のあることだしね。だったら……苦しいだろうけど、眠らせず、回復の呪だけを唱えるから……」

その、ホウアンの表情を見て取り、カナタは、手段を変えよう、と云った。

「そうですね……。──マクドール殿、私は一寸下に降りて、多少は効くかも知れない薬を調合して来ます。直ぐに戻りますから、ここを。シーナさんも、お願いします。何か遭ったら、直ぐに呼んで下さい」

カナタの云う通りにする以外、今は最善の道はないかも知れない、と、ホウアンは立ち上がり、踵を返した。

「判ってる」

足早に出て行った医師の背へ、シーナが頷きを返し。

午前三時を少し過ぎたその時間。

セツナの付き添いは、カナタとシーナの二人のみになる。

「……セツナ…………」

ホウアンが行ってしまって。

キシリ、音を立てて、セツナの寝台に腰掛けながら、ふっ……と、力ない息を肩でして、カナタは、素手のままだった右手で、汗に塗れたセツナの髪を掻き上げた。

「……なあ、カナタ」

ほら、と。

そんなカナタに、冷たく絞ったタオルを放り投げながら。

シーナがぼそりと、三年前の英雄の名を呼んだ。

「何?」

「お前、さ…………。どうしてそんなに、セツナに拘る?」

「知ってるだろう? シーナだって。僕がセツナのことを、『溺愛』してるってのは」

セツナの汗を拭ってやりながら、シーナを振り返れば、何故、そこまでセツナに、と問われ、軽く、カナタは笑んでみせたが。

「それは、知ってる。溺愛が、過ぎてるんじゃないの? とも正直思ってる」

「なら、判るだろう?」

「………………でも、これは。溺愛が過ぎてるってレベルじゃないって、俺は思うぜ? カナタ、お前、さ…………」

「……何が云いたい? シーナ」

「…………お前……ソウルイーターのこと、考えてないか。お前が、セツナのこと溺愛し過ぎたから、こうなっちまったんじゃないか、とか、考えて、ここにいないか? その為に、こうしてるんじゃないのか……?」

──カナタの笑みを見遣っても。

注ぎ続ける、真剣な瞳の色を変えず、シーナはぽつりと云った。

「……シーナ」

三年前の戦友、と云うよりは、悪友、と云った方が近い存在の、シーナが、躊躇いながらも、一息に告げたことを、静かに聞き止め。

「そんな『些細な』ことを気にしてるんだったら。僕はここにはいない」

「些細……って……」

「些細だろう? 些細以上に、相応しい言葉を、僕は知らない。……云ったろう。僕にとっては、僕自身の命より、セツナの命の方が、よっぽど大切なんだって」

すっ……と笑みを引っ込めると、カナタは。

ソウルイーター。

己が右手に宿した、魂喰らいの紋章が齎す事実など、些細なことでしかない、と言い切った。

「でもさ、それって…………。それってさ、カナタ……」

「僕はね、シーナ。この子を……セツナを、『溺愛』して止まないんだよ」

カナタが、たった今呟いたことに。

一瞬、背筋がゾッとして、シーナは尚も、何かを云い募ろうとしたけれど。

何時もの、鮮やかな笑みをカナタは湛え。

くるり、シーナへ背を向け、セツナの世話に、専念し始めてしまった。

「…………やってらんねえ……」

故に仕方なく、不満げな溜息をシーナは洩らし。

椅子に腰掛け直して、仮眠をしよう、と腕組みし、俯いた。