「又ね、セツナ」

「はい。えっと……」

「……ん? ああ、さっき、ビクトール達にも言ったけど、大体、二、三日かな。曖昧で御免ね?」

「だいじょぶですよ。マクドールさんの事情も判ってますから。僕、お迎え行った方がいいですか?」

「そうだなあ……。……じゃあ、明明後日、グレッグミンスターまで来てくれると嬉しい」

「はーい。明明後日ですね。それじゃマクドールさん、行ってらっしゃい」

「うん。行ってくる」

ビッキーの許に辿り着き、同じく、本棟一階広間の中央に据えられた、約束の石版の守り人ルックが、嫌っそーーー……に顔を顰める会話をセツナと交わしてより、ビッキーの魔法に送られて、カナタは、セツナの古城を後にした。

ビッキーの操る転移魔法と、ルックや、彼の師匠であるレックナートが操る転移魔法には、カナタにも判らない何らかの相違があるらしく、ビッキーのそれでは、同盟領とトラン共和国領の国境を越えること叶わぬので、送り届けられた、国境の村であり、カナタにとってはセツナとの出逢いの村であるバナーより、近隣諸国でも、険しい、と悪評高いバナーの峠道を、右手に、得物である黒塗りの棍──天牙棍と呼ばれるそれを持ち、左手には例の籐籠をぶら下げ、カナタは行った。

女子供では越えるのも難しいのでは、と旅人達に言わしめる、道も悪く難所も多い峠道を、整備された街道を辿る際と何ら変わらぬ足取りで以て、語っても、他人は俄には信じてくれぬだろう短時間で踏破した彼が、トラン共和国首都グレッグミンスター──かつての赤月帝国帝都であり、彼の生まれ故郷であり、あの頃も今も、黄金の都と名高いそこに帰り着いたのは、日没の少し前だった。

未だ、暦の上では初秋と言える時期だけれども、それでも日に日に陽が短くなってきたと言うのに、夕日が沈みきっていない時刻に黄金の都に着いたということは、半刻もすれば昼食時、という頃合いに本拠地を後にした彼が帰郷に要した時間は、大凡で三刻と少し、ということになる。

……それは、彼が健脚を誇ることと、国境の関所からは馬車を使い、トラン湖を渡る際には高速艇を使った、という事実を加味しても、驚異的な速さと言えた。

だが、別段、疲れた様子も窺わさせず、生家の玄関を叩いた彼は、出迎えてくれた留守居役のクレオに、セツナから託された土産を、ひょい、と手渡し、美化された英雄像を彼に重ねる者達は幻滅するかも知れぬ程に良く回る口で、本拠地内の出来事を、クレオへと面白可笑しく語ってやりながら、彼女の拵えた夕餉を食し、食後の茶も楽しみ、湯を使った後は、一杯引っ掛けつつ、亡き父の部屋から物色してきた数冊の本を、遅くまで読み耽ってより床に着いた。

かつて立っていた座、トラン解放軍の軍主となってから暫くが経った頃より今日こんにちに到るまで、カナタは、一般的とは言えない習慣を持っている。

何時に床に入ろうとも、ある一定の間隔で目覚める、という習慣。

宵の口頃に眠ろうが、明け方に眠ろうが、彼は必ず、寝て起きて、を周期的に繰り返す。

……習慣、と言うよりは、一種の癖と言った方がいいかも知れない。

それに加え、ここから先は、と彼が定めた範囲を踏み越え近付く者がいれば、相手がセツナであっても目を覚ますし、近くに何者かがいれば、決して眠らない。

故に、カナタを知る人々は、彼は一体何時眠るのかと不思議がるが、彼とて人間、きちんと眠りはする。

但、浅い眠りを繰り返すことも、深く短い眠りで済ませることも、半ば自在に出来るだけだ。

どちらの眠りを選んでも、疲れも払拭してみせる。

それは彼が、生き抜く為に、己自身で、そうするのだ、と己に強いた結果の一つ。

けれども、生まれ育った我が家の、己の部屋の己の寝台で一人……、となると、カナタ自身が望まなくとも、体だけは勝手に昔に戻るのか、朝食の支度を終えたクレオに部屋の扉を叩かれるまで、頭の芯まで寝ていることもままあって、『楽隠居』の身の上となってよりこっち、生家で迎える彼の朝は、総じて遅い。

遅いだけでなく、怠惰でもある。

又、そんな格好で……、とか何とか、クレオにブツブツ零されても、懐に、良家の子息という経歴には相応しくない武術扇──暗器のみを突っ込んで、夜着のまま家内をふらつき、朝食から何から済ませてしまう。

足許とて、室内履きを突っ掛けただけだ。

そのくせ、来客──主にセツナ──が来ると判っている日は、起き抜けから全てが完璧なのだから、今現在、彼の被っている『猫』は、化け猫なのかも知れない。

それだけ、彼はセツナを『溺愛』している、とも言えるが。

────だから、その日も、彼の一日の始まりは怠惰だった。

「坊ちゃん。うるさいことは言いたくありませんが、もう少し、こう……」

との、クレオの小言をさらりと流し、諦めの境地に達した彼女が淹れてくれた茶を乗せた盆を持って部屋に引っ込み、夕べ失敬してきた書物達を戻しがてら父の部屋へ行き、本の代わりに大振りの文箱を携えて戻ると、自室の片隅の、壁に面して設えられた机に向かって、文箱の中より、帳面を二冊と、そこそこ量のある書状の束、それにペンと算盤を取り出し、彼は、漸く怠惰に別れを告げた。

格好は相変わらずだが、少なくとも、頭の中身はきちんと活動させて、一通一通、書状を広げる。

楽隠居、若しくは若年寄、な身の上ではあるが、自身で蹴っ飛ばさなければ、今頃は共和国大統領の椅子に座っていたトランの英雄が、『溺愛』しきりの彼と離れてまで手にした書状だ、例えば施政に関する助言を求める書状だとか、一種の嘆願のような物を想像しがちだが。

現実は世知辛く、その大半は、金銭に関するものだった。

何時何時までに、◯◯ポッチを納めるように、と知らせてきている納税通知書。尚、グレッグミンスターのマクドール家本邸及び、別邸や私有地の資産税込み。

同じく、本邸及び別邸その他の維持費に関する請求書。別邸の管理人夫妻の給金込み。

マクドール家代々の墓所がある霊園の、管理費及び供養料の請求書。因みに、一年間分。

赤月帝国がトラン共和国となった際、帝国より拝領していた領地を返還した以降も残った、国とは全く関係ない、生家が代々保持してきた私有地──相手がかつての貴族であろうと、明らかに個人的な資産まで差し押さえる程、トランの政治は見境なくない──の維持整備に関する請求書。

……そういった物に加え。

生活費の請求書や領収書、クレオの給金の領収書、彼女の将来の為の積立金の明細書、未だに時折舞い込むトラン復興事業の為の寄付金依頼書、長らく付き合いのある家──主にかつての貴族達──の冠婚葬祭の祝儀・不祝儀の内訳書。

……そんな代物達が、今、彼が戦っている書状の中身だ。

それら一枚一枚に目を通し、資産の収支を綴る帳面と睨み合いながら算盤を弾き、支払いの手続きをし、帳面への記載をしつつ無駄な出費がないかを確かめ、頭も少しばかり悩ませ、次いで、もう一冊の帳面を開いて、表立った積立金とは別に、せめて、何十年か後には迎えてしまうだろうクレオの天寿の時までは、彼女に何不自由ない生活を送らせられるように、没落したマクドール家の姿を見せずに済むように、こっそり貯め込んでいる、言ってみれば、隠し資産──無論、違法だ──のような物の収支に関して頭を悩ませ、一応は納得出来るまで算盤を弾くと、閉じた帳面達と、整理した、金銭に関する書状を文箱に仕舞い、今度は彼は、手紙を書き始める。

解放戦争以前程は多くないが、少ないとも言えない、婚礼の招待状、晩餐の招待状、見合いの申込状、葬儀を知らせる通知、そういった手紙を片っ端から確かめて、婚礼や晩餐の招待状へは、懇切丁寧な祝いや礼の言葉と共に、ひたすら懇切丁寧に欠席の意向を詫びと共に綴って、見合いを勧めてきているそれには、懇切を通り越し、嫌味の域に達した馬鹿丁寧な断りを書き、葬儀の知らせには、相応の返事をしたため、全てに手落ちがないかを確認してから、やはり、片っ端から生家の紋章の透かしが刷られた封書に叩き込み、ガンガンに蝋で封をし、送る手配も整え。

稀に混ざっている、建国の英雄殿の許に舞い込むに相応しい、施政に関する相談状の類は、全て黙殺し。

「鬱陶しい……。毎度のことながら鬱陶しい……。……あーもー、セツナ、連れてくれば良かった……」

昼食も摂らず、茶の淹れ替えだけをクレオに頼みながら『義務』に勤しんでいた彼より、ボソリ、愚痴めいた科白が洩れたのは、もう、夕刻だった。