金勘定に勤しみ、世間体を搾り出し、とした為、前日、グレッグミンスターへ戻ってきた頃と似たり寄ったりの時刻、やっと部屋から出てきたカナタは、少々不機嫌だった。
亡き父が守り続けた家名の為に、己が果たすべきこと、と判ってはいても、鬱陶しいものは、彼にとっても鬱陶しいので。
「お疲れ様でした」
傍目には判らぬが、彼に近しい者なら一目で看破出来る程度には臍を曲げている彼の様に、クレオは苦笑する。
流石に、「それは違法と言うのでは……」な、ゴニョゴニョとした資産のことまではクレオも知らないが、彼が、この家の主として、算盤を弾きながら請求書や領収書の山と戯れ、本当は受け取りたくもない手紙達への返事を綴っているのは弁えているので、彼女は、
「夕食の前ですから、少しだけですよ」
と言いつつ、酒とグラスを整えた。
「……目が痛い」
支度されたそれを有り難く手にしつつも、一杯目のワインを一息で飲み干し、カナタは低い声で唸る。
「多かったですものね、お手紙」
「ああ。請求書や領収書は何時も通りだったけれど、そっちが……。僕が帰って来ていると、大分、知れ渡ったらしい。……婚礼や葬儀の知らせまでは許せるけれど、晩餐に、と言われてもねえ……。況してや、見合いの話なんて以ての外だ。読むだけ時間の無駄」
「それは、まあ……。でも、こうしてお戻りになられてる以上、坊ちゃん宛の書状を、私が勝手に開ける訳にもいきませんから」
だから、クレオの苦笑は益々深まり、
「……判ってる。クレオだから言える愚痴。仕方ないとも思ってるよ。その手のことに、魅力を感じる人種がいるのは確かだというのも。こればかりは、『敵』が諦めてくれるのを待つしかない。────……クレオ、すまないけれど、夕食にして貰えないかな。このままじゃ、少しだけじゃ終わらなくなりそうだ」
少々の会話を彼女と交わすだけの間に、左手で両の目頭を押さえながら、立て続けにワインを呷ってしまったカナタは、今夜の酒は、憂さ晴らしを兼ねたやけ酒になるやもだから、今の内に夕食を、と訴えた。
翌朝。
遅めの、怠惰な朝を再び迎えたカナタは、それでも、朝食を終えて直ぐに身支度を整えた。
手紙の送付の手配と、託しても問題ない支払い等々の遣いをクレオに頼み、彼女が出掛けるのを待ってから家を後にし、自身でなければ出来ない、例のゴニョゴニョに関する諸々を済ませ、顔出し序でに、マリーの宿屋で昼食を摂ってから、彼は、グレッグミンスター城へ向かった。
建国後に国軍の兵士となった者達でも、トランの英雄の顔を知らぬ者は皆無だから、彼の不意の訪問を受け、最敬礼を取った門番達は、慌てた風に、現・大統領であるレパントや、彼を知る閣僚や将軍達にその訪れを告げようと走り出し掛けたが、彼等をカナタは制した。
何時になったら、事前の知らせなしにグレッグミンスター城を訪れた時には、誰にも知らせぬように、との申し伝えが浸透するのやら……、と内心で苦笑しつつ、一人、勝手知ったる城内を行く彼に目を留める者は数多だったので、己の訪れがバレるのも時間の問題だろうけれども、一刻くらいは猶予がある筈、と考えながら。
彼は、目的の場所を目指した。
城最上階に位置する、空中庭園を。
赤月帝国時代、そこにしかない珍しい花々も数多い、と噂に高かったグレッグミンスター城の空中庭園は、解放戦争に幕を下ろしたあの最後の戦いの際、城を包んだ業火より奇跡的に逃れた。
多少、崩れ落ちた箇所もあるにはあったが、希少な草花も殆どが無事で、以前の姿を取り戻すのは容易だった。
帝国最後の皇帝、バルバロッサ・ルーグナーと、黄金皇帝と名高かった彼を貶めた魔女ウィンディの二人が多くの時間を過ごし、又、彼等の最期の場所となった空中庭園など、取り壊してしまえばいい、との意見は、幾度となくレパントまで届いたし、皇帝と魔女を討ち果たした場所なのだから、城一階に作られた、解放戦争に関する歴史資料の博物室とは別に、トランの英雄──即ちカナタの功績を讃える記念碑か何かを据えて、共和国の象徴的な場所に作り替えたらどうか、との提案も少なくなかったけれども、レパントは、そのどちらも選ばず、空中庭園は、かつての姿を留めたまま、現在に至っている。
レパントが庭園に手を付けなかったのは、希少な草木を無理矢理植え替えたら枯れてしまうかも知れない、草木に罪はない、が理由だったが、それは、あくまで一部の、そして表向きの理由だった。
真実は判らぬけれど、もしやもしたら、空中庭園には手を付けぬ方がカナタの意向に添うかも知れぬと、何となくの予感を覚えた、それが、大部分の、そして本当の理由。
そしてその、漠然とした予感に基づいた彼の処置は正しかった。
今尚、赤月帝国時代のまま空中庭園が存在しているが故に、カナタは時折、一人で城を訪れるのだから。
────在りし日のままの、空中庭園。
未だ、瞼の裏に鮮烈に甦る、雌雄を決すべく皇帝と対峙したあの刹那の記憶のまま、存在している空中庭園。
四季を問わず花咲き乱れる様も、かつて通りのそこを、その日、カナタは訪れた。
……グレッグミンスターに舞い戻って以来、カナタは思い出したように、一人、庭園へと足踏み入れる。
そこを訪れる時、彼は、何者も伴わない。セツナであっても。
そもそもセツナは、カナタが空中庭園を訪れることあるのを知らない。
家族同然のクレオも、兄貴分なビクトールやフリックも。知らない。
薄々ながら、彼がそのような時間を取るのに感付いているのは、どうしたって、この件に関しては誤魔化しが難しい、レパントやアイリーンや、亡き父テオの腹心だった、今は共和国軍の将軍を務める、アレンやグレンシール達といった、ほんの一握りの者達だけだ。
庭園への訪れは、叶うなら、その一握りの者達にも知られることなく、己だけの秘密に……、とカナタは思っているが、空中庭園は、竜や転移魔法でも使わぬ限り、どんなに忍んでも、人目のある所を抜けなければ絶対に辿り着けぬから、その点は、カナタも諦めている。
だから、この行いは、一応、己だけの秘密、ということにして、空中庭園へと続く階段を昇り終えたカナタは、踏み込む直前、常に漆黒の髪を包む若草色のバンダナを外し、石造りのアーチを潜った直後は、その傍らに棍を立て掛けてから、奥へと進んだ。
…………花咲き乱れる空中庭園。
色とりどりの花を、四季折々に咲かせる。
時に、噎せ返る程に花々の香り漂わせる。
美しい場所。唯ひたすら、美しく静寂な場所。
一つの国が終わり、一つの国が始まった場所。
……そんな場所の最奥──あの時、皇帝が佇んでいたそこへと進み、カナタは、晴天の空を見上げた。
あの時は、冬だったけれど。今は、秋だけれど。
空の色さえ、あの日に似ていた。
「いい天気だ」
風に流れる髪を掻き上げながら、晴天を仰いでいた彼は、髪を弄る手は止めず、今度はゆるりと、眼下に広がる黄金の都の町並みを眺める。
隅々まで見渡した黄金の都は、流石に、あの頃とは違う顔を見せていたけれど、注ぐ彼の眼差しは、酷く愛おし気だった。
その、愛おし気な眼差しを、振り返り、背の低い囲いの手摺に凭れつつ見遣った空中庭園へも、彼は注いだ。
────グレッグミンスター城最上階、空中庭園。
花咲き乱れる、美しい場所。
赤月帝国最後の皇帝となったバルバロッサ・ルーグナーは、そこを、己に残された最後の帝国領だと言った。
亡国最後の皇帝にとって、そこは、王者の、英雄の道を見失っても尚、愛おしい最後の祖国だった。
そして、そこは。カナタにとって。
…………カナタにとって、そこは──────。