「セツ……──」
物ともせずに立ちはだかった敵を倒し、階段を昇り、角を二つ折れ、静まり返る回廊にカナタが飛び込んだ時、遥か先を曲がろうとしている、駆けるセツナの後ろ姿が彼の視界には映った。
見付けたその背へ、何処へ、と呼び掛けようとした声を、彼は半ばで飲み込む。
そうして、チラリ、直ぐそこに転がる数体の骸を一瞥してより、その場に漂う静寂に相応しい足取りで、そっと、回廊の途中まで進み。
「……ナナミちゃん……?」
冷たい床に横たわるナナミの傍らで、彼は膝を折った。
微かな、が、荒い息をしている彼女の傍に跪いて、セツナが掛けていったらしい上衣を持ち上げてみたら、彼女の胸──心の臓近くに、矢で射られた痕があるのが見付けられ。
「セツナ…………」
少年の名を呟きながら、そうっと、彼は上衣を掛け直す。
────未だ、ナナミの息はある。
けれど、彼女が受けた傷は、深過ぎる程に深くて、どれだけ癒しの魔法を唱えても、どれ程薬を投じても、この場にいる限りもう、手の施しようはない……、と彼は察した。
万に一つ、希望を見出すならば。
城下を埋めるハイランドの軍勢の直中を突っ切り、無理矢理にでも同盟軍本拠地へ帰るか、犇めくハイランドの軍勢と戦っている戦場からルックを呼び戻し、本拠地へ転移するかの、二つに一つしかないだろうことも。
ナナミの命を救うことが出来るかも知れないのは、己でも、セツナでもなく、医師のホウアン、そして。
時間、ということも。
彼には察せられた。
……なのに。
恐らくはセツナも又、それを、判っているのだろうに。
セツナは、この場にはいない。
「…………大丈夫。大丈夫だよ、セツナ。この瞬間も、君が『そう』であるなら。必ず。必ず、僕は君を、支えてあげる。導いてあげる。君の傍らに、常に。僕は在る。……セツナ。有り難う──」
だから。
そんな、彼を想って。
カナタは、セツナの後を追おうと立ち上がった。
息が切れる程の速さで駆けて、駆け続けて、辿り着いた屋上にて、冷たい北国の風が吹き付ける中、宙へと半身を乗り出し、壁伝いに垂れるマチルダ騎士団の旗を掻き毟るような仕草で取り上げて、屋上の床へと落とすとセツナは、そこに火を点けた。
携えて来た火打石を打ち鳴らしても、上手く燃やすことが出来なくて、苛付く仕草で腕を動かし、何度も何度も石打ち鳴らし、漸く、旗を結びつける紐の先に火を移すこと叶えた彼は、そこでやっと、ああ、そうだ……、と、この為に油を詰めた瓶を持って来ていたのを思い出し、荷物の中から取り出したその瓶を、燃え始めた旗へと、叩き付けるように投げた。
すれば、瞬く間に火は勢いを増し、狼煙のように黒い煙を吐き出し始め、一瞬のみそれを、何処か胡乱めいた眼差しで眺めた彼は、騎士団の旗が掛かっていたそこへ、同盟軍の旗を結び付けた。
旗を下げる為に石の壁に打ち付けてある金具と、旗の端の紐を、固く固く結び、ぱっと彼が手を離したら、臙脂
「……早く気付いて……お願い……っ」
──眼下に遠く広がる、冬枯れの草原にて、今尚戦っているだろう自軍と敵軍、その双方の目に、燃える旗の火と、翻るそれが、確かに映り込みますように、それを願ってから、セツナは再び踵を返し、元来た道を駆け戻り始める。
……行わなくてはならないことは、確かに果たした。
あの火と、あの旗に人々が気付けば、シュウが立てた策通りに事は運ぶ筈。
ならば、後は、一人残して来てしまった義姉の許へ戻って、彼女を連れ、仲間達と共に、この城を去るのみ、と。
どういう訳か震え始めてしまった膝に、思い切り力を込め、彼は、うるさい程足音を響かせる塔の階段を下りた。
幾つも段を飛ばし、転げ落ちる程の勢いでそこを駆け抜け、あの回廊へ……、と彼は身を翻させる。
「……セツナ?」
と、回廊へ続く最後の角を曲がった瞬間、セツナはそこで、能く知るトーンで名を呼んでくれた人──カナタにぶつかり掛けて。
「…………マクドールさん………………」
刹那の時だけ、その面を歪め……が、直ぐさま、何時も通りの表情を取り戻してみせた。
「…………おいで」
ふわりとした、常の笑みまでをもセツナは浮かべられなかったけれど、それに近い色を頬に乗せ、見上げて来た彼へ、カナタは手を差し伸べる。
……伸ばされた、その手を、セツナは無言のまま取り。
彼等は走り出した。
「……どうしたってんだ? カナタの奴」
「さあな……」
「何か、遭ったのかも知れんな」
カナタにとっては何者にも代え難いらしい盟主の少年の名を呟きざま、彼が駆けて行ってしまった後。
取り残される形になったビクトールとフリックとゲオルグの三人は、追っ手の全てを片付け終えたか否か、それを確かめてから、カナタやセツナ達の後を追おうと、渡り廊下へと続く階段の方角を振り返った。
「──首尾は?」
だが、彼等が歩き始めようとした途端、自身達が転がした骸の向こう側から、聞き覚えの有り過ぎる声に呼び止められて、三人の男達は又、その場に留まった。
「シュウ。お前も来たのか?」
「ああ。一応今の処、策通りに事が運んでいるのでな。こうして悠々とやって来られる程、城内の混乱も激しい。だから、こちらの様子を見に来た」
掛けられた声──シュウの声、それに振り返り、正軍師自らがお出ましか? とビクトールが首を傾げれば、余裕が生まれたから、と、数名の部下と共にやって来たシュウは答え、
「盟主殿や、マクドール殿や、ナナミは?」
くるり辺りを見回して彼は、その場にいない三人の、行方を尋ねた。
「セツナとナナミは、先に行かせた。手分けした方がいいだろうってことになって。俺達は、ここで追っ手を食い止めてたんだ」
「カナタの奴は、ここが粗方片付いた後、セツナ追ってったぜ。但、あいつの様子が、一寸おかしかったんでな。何か遭ったのかも知れないから、俺達も向かおうとしてた処だ」
彼等は、何処へ? と思案気な顔付きになったシュウへ、フリックとビクトールが口々に事情を語って。
「まあ、カナタがいれば、何とかはなっているだろうが。……急いでみるとするか?」
チン……、と音を立てながら、己が剣・雲を、腰の鞘へと戻しつつ、ゲオルグは、留めていた足を動かし始めた。