ビクトールの、星辰剣──『夜』に属する生き物である、吸血鬼を滅ぼせる唯一の武器、夜の紋章の化身である、あの剣。

それが今、この場にはないから。

きっと、未だ同盟軍の盟主となる前、ノースウィンドゥの廃城で初めて戦った時のように、どのような攻撃も、ネクロードには通用しないんだろう、と判ってはいたけれど。

輝く盾の紋章の力を振るえばもしかしたら、この場から逃げるくらいのことは出来るかも知れない、と。

詠唱を唱え、右手を輝かせたセツナは、『輝く光』の魔法を呼んだ。

セツナの意に答えて生まれた力は、薄く緑掛かった目映い光で辺りを包み、ネクロードをも一瞬、怯ませてみせたが。

数ヶ月前、風の洞窟で出会った、ヴァンパイヤハンターのカーン・マリーが言っていたように、星辰剣もない今、現し身の秘法さえ扱う吸血鬼には、輝く盾の紋章の力すら及ばず。

「逃がさない、と何度言えば判るんですか?」

『輝く光』が掻き消えた後も、ネクロードは髪一つ乱さず、その場に立っていた。

「……だから。やってみなきゃ判らないって、僕も言ってるじゃない」

故にセツナは、あちゃ……と軽く顔を顰めながらも、ナナミを庇いつつ、じりじりと、ネクロードから後退る。

「確か、セツナという名前でしたね、貴方。……セツナ。これが最後の誘いです。どうですか。死者となって、私の王国に住まいませんか。貴方がお持ちのその紋章は、中々魅力的ですから。待遇は、宜しいですよ?」

セツナが後退った分だけ、ネクロードは前へと進んだ。

「お断り」

「おや。……何故です? 生者であるからこそ、生者故の醜さが、貴方にはとても良く、判っている筈なのに。……生きている、ということはね。それだけで醜く、そして、罪悪と成り得ることくらい、貴方は承知の筈ですよ? 死ぬということは、非常に美しくて。苦しみから逃れる唯一の方法だと、貴方はご存知でしょうに」

「……嫌ったら嫌。害虫の言うことに、耳なんて貸さないもん。マクドールさんに叱られちゃうし。それに僕は、死にたくなんてないし。だから、嫌ったら嫌。死んでまで生きるなんて、別に美しくも何ともないもん。四百年も生きてるおじーさんの割に、頭悪いんじゃなあい?」

だから又、セツナは相手を見据えたまま後退り。

「…………聞き分けのないガキはね、私は嫌いなんですよ。ですから。私の折角の誘いを断って、そうまで愚かしい態度を取った罰に、呪いを差し上げましょうか。百人の血によって呼び覚まされる、月の紋章の呪いを。……死んでしまった方が楽だ、と思えば、貴方とて、死を選ぶでしょう。人は、そういう生き物ですからね」

セツナの台詞に、ムッとしたらしいネクロードは。

「我が月の紋章よ、百人の血と百人の命を捧げん。いざ至れ、『蒼き月の呪い』……──

己に宿した月の紋章に、血の力を与える為の、詠唱を唱え始めた。

──セツナ、逃げてっ!」

辺りに響き渡る呪いの言葉より義弟を守ろうと、ナナミの叫びが上がる。

が、そんなナナミの叫びも、マズい、と身を翻したセツナの動きも、間に合わず。

「もう遅いわっ!」

唱え終わった詠唱の最後、嘲笑うようにネクロードは言った。

「駄目、嫌、セツナっ!」

四百年を生きる吸血鬼の声が収まった途端、セツナの足許から、漆黒色の光が方円に膨れ上がって、セツナを飲み込み始め……だが。

汚らわしい、とでも言うように、前触れもなく湧いた輝く盾の紋章の、淡い緑色に縁取られた光に、漆黒の呪いは掻き消された。

「まさか、この呪いを……?」

その様に、ネクロードは呆然とする。

「ナナミっっ」

そして、その隙を突いてセツナは、義姉の手を引き、ネクロードの脇をすり抜けるように駆け出した。

「おのれ、逃すなっ!」

彼等の背後で沸き上がった、ネクロードの悔し気な声に答えて、地中から、生ける死者達が競り上がり、セツナとナナミの行く手を阻んだけれど、セツナはそれを、時にトンファーを振って、時に輝く盾の紋章を輝かせて退け。

来た道を、一目散で走り抜け、陽光の下への門である、坑道の入り口に何とか辿り着いた。

「良かったぁ……。ここまで来れば、もう大丈夫だね」

明るい日差しの下へと飛び出ること叶って、ホウ……とナナミが溜息を付いた。

「うん」

安堵と恐怖がない交ぜになった表情を浮かべる義姉を励ますように、セツナは微笑みを浮かべて頷いた。

「あー、もー。どうしてこんなことになっちゃうのかなーーーっ」

「……ナナミが、朝御飯外で食べるって言い出さなきゃ、こうならなかったと思うよ」

「…………何よ。私の所為って言いたいの? セツナだって後付いて来たじゃないのーーーっ!」

「そこまでは言ってないけど。──兎に角、早く戻ろうよ、ナナミ。坑道に『アレ』が出たって、皆に知らせないと」

暗い地中ではなく。

明るい地上へと無事に戻ったが為か。

元気を取り戻したナナミと冗談を言い合いながらセツナは、ギルドホールへと、足先を向けようとした。

地上へ戻れた安堵を、噛み締めている暇なぞ今はなく。

一刻も早く、ネクロードのことを、カナタ達に伝えなければならなかったから。

ナナミを促しつつ、タタっとセツナは、足を動かし始めて…………でも。

「…………あ」

走り出したその時、くらっ……と、視界の中の天地が歪むのを、彼は感じた。

「え? どうしたの? セツナ」

「……ん。……何でも……ない……んだけ、ど…………」

目眩を覚え、立ち止まってしまった彼の様子に気付いて、ナナミは義弟の顔を覗き込み。

無理矢理に笑いながら、何でもないよ、とセツナは言い掛けたけれど。

「嘘っ。何でもない訳ないじゃないっ。セツナ、顔真っ青だよ? ねえ、どうしちゃったの? 具合でも悪い? 御飯食べないであんなのと戦ったから疲れちゃった? ……セツナっ。大丈夫? セツナっ」

耳許で響くナナミの声を、遠くから響くそれと感じてしまうようになったセツナは。

「……平気、だってば……。……うん…………。昨日……から、御飯、食べてない、から……。一寸、お腹空いちゃ…………。……只の、貧、血……だから。……僕は、だいじょ…………」

何処までも、義姉への嘘を吐き通しつつ。

しかし、もう限界、と、そのまま大地に両膝を付いてしまった。

「セツナっ。セツナっ! どうしたの、セツナっ! しっかりして、セツナっ!」

崩れるように膝付いたセツナを、ナナミは懸命に揺すった。

「…………あはー……。御免、ね……? ナナミ……。やっぱり……昨日……ちゃんと御飯……食べとけばよかっ……たか、な……」

深く己を案ずる彼女に揺すられ、不安に揺れる瞳を見上げながら彼は、ふらつく己が足を叱咤して、何とかもう一度、立ち上がったが。

「セツナ、無理しなくっていいよ。ねえ、セツナっ」

義弟を支えるべく伸ばされたナナミの腕を、ゆらゆらと揺れたセツナの体は、する……とすり抜けてしまった。