始まりの合図もないまま。
すらりと星辰剣を抜いたビクトールは、『戦い』の際、何時も取る構えを見せた。
右手で、しっかりと掴んだ柄を、右脚に添わせるように下げて、左脚を半歩程、前へと踏み出し。
何を基準としているのか、当人以外には判り得ない、『拍』をその身で刻んで。
ゆらり……と彼は、体を揺らめかせた。
一方、セツナは。
何時も通りの微笑みを湛えたまま、両手に握ったトンファーを構え、両足を、肩幅程度開いて、軽く、腰を落とした。
彼等は互い、そんな姿勢を取って、暫しの間、動きを止める。
いや……彼等のその『沈黙』は。
動かない、とも言えたし、動けない、とも言えた。
──ビクトールの持つ星辰剣は、両手持ちの剣だ。
振り被り、敵を討つ時は、流石のビクトールも、その両手を柄に添えるけれど。
下げているだけ、とは言え、両手持ちである筈の剣を、片手で扱ってもみせると云うことが、どう云う意味を持つのか、セツナは良く知っている。
ビクトールの取った構えの意味する処。
それは、彼の腕力の強さと、両手剣の重さが、彼にとってはハンディではない、と云うそれ。
……そして、セツナがそれを、良く知っているように。
ビクトールも、良く知っている。
トンファーを使う者は基本的に、己から仕掛けて来ることはない、と云う事実を。
トンファー遣いの戦い方は、空手の戦い方と等しい。
空手のような体術を使う者が、『得物』を持つ者と対峙した時、根底に貫かれるそれは、『敵を、据え物にしてから打て』──則ち、攻撃を避けられぬ体勢に追い詰めてから一撃を繰り出す、と云うそれだから。
下手に振り被って、隙を作るような真似は出来ない。
故に二人は。
中々、動こうとはしなかった。
────トンファーと対峙した時の、剣の利点。
それは、『得物』の長さにある。
相手の懐に入らなければ打つことの叶わぬトンファーに対して、言わば、剣の結界を作り上げられる、と云うのが、剣の利点だ。
片や、剣と対峙した時の、トンファーの利点。
それは、素早さにある。
剣の一撃を避け、懐に飛び込んでしまえば、負けることは有り得ない。
固い、樫の木で出来たトンファーの先で敵の胴を突けば、骨の一本や二本、呆気無い程簡単に折れるし、顔面を狙えば、顎が砕ける。
故に。
トンファーと対峙した時の剣の不利点は、その鈍さであり、『懐の深さ』であり。
剣と対峙した時のトンファーの不利点は、結界の中に飛び込まなければならない、と云うそれだ。
だが。
両手剣を武器としているにも拘らず、ビクトールの動きは、一般的なそれよりも素早い。
本来ならば、踏み込むことを躊躇うだろう結界の中に、簡単に飛び込んで来られる程、セツナの動きは早く、実力は高い。
…………だから、二人は。
動きを見せることなく。
「ん、もう……。ビクトールさんって、案外、慎重派なんだよね……」
────一唯、何も知らず、それを眺めている者には。
長過ぎる、と思える程、微動だにせぬまま対峙した後。
ボソっと、セツナが零した。
「お前さんが相手だからな」
それを受けて、ビクトールが苦笑を浮かべた。
「そう云って貰えると、嬉しいな。……でも、このままじゃ、埒あかないよね」
苦笑を添えられつつ呟かれた、ビクトールの一言に。
にこっ、とセツナは笑って、けれど直ぐさま、ぷっと頬を膨らませてみせ。
「先手必勝って言葉もあるしぃっ」
彼は、とん……と、木目の床を蹴った。
腰を落とした低い姿勢のまま、若干前のめりに踏み出して、左手のみを少しばかり高く掲げ、ヒュッ……とセツナは、右手を繰り出す。
霞んで見える、右手の一撃を避ける為に、構えていた剣を持ち上げて、ビクトールはそれを、己が眼前に真横にして掲げ、刃に、左手を添えた。
「お前の、唯一の弱点は多分、その軽さだなー」
トンファーの先端を覆う鉄の刃避けと、星辰剣が触れ合って、ギンっ! と音を立てた時。
ビクトールが、そう言って笑った。
「……どーせ、軽いよーーだっ!」
「ちゃんと、飯喰ってっか?」
右手の一撃を、剣で以て防いで直ぐさま、左脚を軸にして、半身のみを下げ、セツナを押し返しつつ、繰り出されると予測した、左の一撃を退ける姿勢を取って、ビクトールは茶々を口にする。
「食べてるもんっ! でも、食べても太らないんだもんっ!」
押し返された勢いをそのまま借りて、セツナは又、元いた位置まで下がると、ぶうぶう言いながら、下段より持ち上げられた星辰剣の切っ先を弾いた。
…………キンッッッ……! と。
訓練所の空間に、金属と金属の触れ合う、甲高い音が木霊する。
「いいのっ! 体重軽くっても、腕力は別物だからっっ」
「あー、それは認めてやる。以前に比べりゃ、遥かに力は付いたな、お前。でも、軽い、ってのは、何処までも不利だ」
──懐に飛び込んで来るのが、『敵』の戦い方だと言うなら。
懐に、入れなければいい、と。
もう少し太れ、そんな風にセツナをからかいながら、ビクトールは星辰剣での打ち込みを続けた。
──飛び込ませてしまったら最後だ。
下手な『目測』は効かない。
セツナの握る、取っ手部分より先の、トンファーの『先端』。
そこは、『伸びる腕』に等しく、人の目測を狂わせるに充分過ぎる。
唯でさえトンファーと云う武器は、こちらの一瞬の隙を突かれて、持ち方を変えられれば、自在に『長さが変化する』武器なのだから。
「いーもん。体重が軽いのって、悪いことばかりじゃないもんね」
重たい、星辰剣の打ち込みを、両のトンファーで受け止め弾き、ふん、だ、とセツナは、ペロリ、舌を出してみせた。
──軽口を叩きながら、剣の切っ先を弾き続ける彼の姿は。
よくよく考えてみれは、恐ろしい、とも言えるのだろう。
セツナの持つトンファーの大部分は、木で出来ている。
剣や槍、と云った刃物を避ける為の、鉄の覆いは付いているけれど、その覆いは、一部分でしかない。
幾ら素材が、固い樫の木であろうとも、刃物を受け止める部分を少しでも違えてしまったら、太刀に武器を断たれて、そのまま切っ先を、体で受けることになるのに。
そんな過ちを、犯す筈もない、と云う風に、軽々、セツナはトンファーを操って、降って来る、重たい剣の一撃を、力で押し返すのではなく、風に揺れる柳のように、逸らして。