後々、同盟軍内で密かに、「ジェス殿の悪夢の日」とか、「虫達の厄災」とか、そんな風に呼ばれることになるその騒ぎを引き起こしたのは、セツナだった。

因みに、共犯はカナタ・マクドール。

…………この戦争が始まったばかりの頃──未だ、セツナが、ビクトールやフリックがミューズ市より任されていた傭兵砦の一兵士のような立場しか持ち得ていなかった頃。

ミューズ市がハイランド皇国軍の急襲によって陥落したあの夜、当時のミューズ市長だったアナベル殺害現場に、セツナと、セツナの義姉のナナミが居合わせていたのを目撃したジェスは、以降長らく、己が忠誠を誓ったアナベルの命を奪ったのはセツナだと思い込んでおり、彼が同盟軍の一員となる切っ掛けを生み、吸血鬼ネクロードに襲われた街ティントでセツナ達と再会を果たした際には、公衆の面前で、手酷くセツナを非難した。

罵倒もした。

それでも、ティントを舞台にした吸血鬼騒ぎが一件落着した直後には、ジェスも、ジェスと行動を共にしていたハウザーも、セツナ達と共にハイランドと戦うと誓ってくれたが、おっとりとしていて、ぽややんとした雰囲気を持ち、仲間達や兵士達に、何処となく頼りな気な笑みを見せているのが常のセツナも、ジェスには思う処があったようで、ティントのあれ以来こっち、「ジェスさんとは、恨みっこなしがいいですからー」と、折に触れ、カナタだけには宣言し続けており。

彼曰くの「恨みっこなし」が実行された為に、騒ぎは勃発した。

────セツナの一〇八星の一人で、本拠地内に自身の探偵事務所の出張所を出している、探偵のリッチモンドに依頼して、ジェスの弱点を調べて貰い、彼が、大層虫を苦手としていると知ったセツナは、カナタに協力を仰ぎ、二人して、しかも徹夜で、軍の書類に見せ掛けた大量の紙を一枚一枚糊で張り合わせ、辞書並みの厚さを持った、ガッチガチに固められた紙束を拵え、今度はそれをくり抜いて『収納部分』を作り、翌日──要はその日、トニーの農園でミミズを捕って、例の丘の藪では昆虫採集に励み、捕まえて来たそれらを、収納付き・偽書類束の中に詰めて、十枚程の、やはり偽書類で蓋をし、ご丁寧に麻紐で縛って体裁を整えてから、こっそり、ジェスの部屋の執務机の上に、贈り物宜しく置き去りにした。

……だから。

そのような企みが繰り広げられているとは夢にも思わなかったジェスは、正軍師のシュウや、副軍師のクラウス・ウィンダミアやアップル達と打ち合わせを終えて戻った自室の机の上に、ちょん……、と置かれていた紙束を、己が処理を託された書類と信じて手に取ってしまい。

「盟主殿!! マクドール殿も! 貴方達は一体、何を考えているんですかっ!!!」

──そんな、傍迷惑この上ない騒ぎが、それでも何とか終息して直ぐ。

精神的な眩暈を覚えざるを得なかった騒動の勃発と、その仔細に関する報告を受けた同盟軍正軍師のシュウは、こんな馬鹿な騒ぎを引き起こすのは、あの二人しかいない……! と誠に正しい想像を働かせ、城内の皆に命じて盟主殿と隣国の英雄殿を捜索し、料理人のハイ・ヨーが一手に取り仕切るレストランのテラスにて、のんびりのほほん夕餉を楽しんでいた処を発見されたカナタとセツナを呼び付け、本拠地本棟一階広間の約束の石版前にて、雁首揃えて立たせた二人を怒鳴り飛ばした。

何故、そんな所で、盟主殿と英雄殿を相手取っての大説教大会をシュウが始めたかと言えば、彼も自ら、怒鳴らずにはいられなかった二名を探して本拠地内を駆けずり回っていたからで、自室にまでカナタとセツナを引き摺って行く手間も体力も、その時のシュウには惜しかったらしい。

「だって。……ねー、マクドールさん」

「ねー、セツナ」

だが、無表情でもあり鉄面皮でもあると軍内では評判の鬼正軍師殿が、両の眦吊り上げて、瞳を三角形にしながら、こそこそとその場にたかって来た野次馬達が身を竦める程の怒鳴り声を放っても、セツナもカナタも何処吹く風で、互いに顔見合わせ、揃って可愛らしく小首を傾げた。

「何が、だってなのですかっ!! 悪戯にも程というものがありますっ! 盟主殿、貴方がリッチモンドにジェスの『身上調査』を依頼したのを、私が知らないとでもお思いですかっ! そんな、手の込んだ真似までして! 貴方々が仕掛けた質の悪い悪戯の所為で、ジェスは医務室に担ぎ込まれたのですよっ!」

反省の欠片も窺えない二名の態度に、シュウの眦は一層キリキリと吊り上がり、叱責のトーンはいや増す。

「シュウさんは、そう言うけど。ジェスさんだって、僕達の仲間になってくれたんだから、『恨みっこなし』がいいでしょー?」

が。

やっと、シュウへと向き直ったセツナは、にこぉ……と意味ありげに微笑んで、己が正軍師殿を見詰めた。

「……ねえ? シュウさんだって、そう思うよね? やっぱりね、どんな人が相手だって、今までにあったことの全部、何でもんでもなかったことに出来るとは限らないし。だからって、何時までもお腹の中に何か抱えてるよりは、てい! って吐き出して、それで、『恨みっこなし』にするのがいいと思うんだけどな、僕は」

「……………………それ、は、まあ……。仰りたいことが判らなくもありませんが……」

「…………判らなくもないだけ?」

「……………………………………いえ。判ります。盟主殿の仰りたいことは、私にも判っております」

「なら、いいでしょー? これで、僕とジェスさんは『恨みっこなし』だもん」

「…………そう、ですね……」

────と。

どうしてか、シュウは、微笑み全開のセツナより、しらー……と眼差しを逸らし、歯切れをも悪くして、一転、セツナに追い詰められている風になった。

「……あれ?」

「…………どうしちまったんだ、シュウ様は。何時もなら、ここから、セツナ様へのお説教が白熱するってのに」

そんな正軍師殿の様に、三名を遠巻きにしていた野次馬達の中から、幾つかの訝し気な声が洩れたけれども。

ティント市のギルドホールにて、ジェスが、感情に任せてセツナを詰ったのが公衆の面前だったが為、彼とセツナの間に何が遭ったのかの大凡は、軍内の殆どの者の周知となっていたので、野次馬達は、「まあ、盟主殿の仰りたいこともお気持ちも判るし、シュウ殿も、盟主殿のお気持ちを察して、強くは言えなくなってしまったんじゃないか」と、セツナの肩を持ちつつシュウの変化を受け止め、

「で、ですが。貴方には立場もおありなのですから、どうか、程々になさって下さい……」

最後に、ごにょごにょと言うと、シュウは、そそくさとその場より去った。

「うーん……?」

故に、なーんだ、これで終いかと、三々五々、野次馬達は散り始めたが、又ねー! と手を振ってシュウを見送るセツナの傍らで、カナタだけは深く首を傾げる。

何時如何なる時でも同盟軍正軍師の看板のみを引っ提げているシュウが、ジェスに対するセツナの言い分や気持ちが汲めるという程度で、今回の『報復劇』に対する説教を引っ込めるとは、彼には思えなかったから。

「セツナに、ああ言われちまったら、シュウには強く出れねえよな」

「…………だろうな」

「んー。久し振りに出たか、『犠牲者』」

と、ほえほえと笑むばかりのセツナを見下ろし、これはどういうことだと頭を捻り始めたカナタの傍に、ビクトールとフリックと、ウィングホート族の少年、チャコが寄って来た。

「『あれ』の理由、ビクトールとフリックは知ってるんだ? チャコも」

「ああ、まあな」

「一応」

「俺は、話に聞いただけだけど」

某か物申したいような、けれど何にも触れたくなさそうで、薄らとした怯えを抱えている風にも見える、言葉にするのは難しい複雑な表情を湛えた三名は、自分達を振り返ったカナタへ、揃って苦笑を見せた。