半ば飛び出るようにセツナの部屋を去った彼女が、半階下の自身の部屋に引っ込んでしまったのは、午後半ばの頃だった。
とは言っても、やはりセツナの部屋の様子や彼の具合は気になる彼女は、時折、そろっと部屋の扉を薄く開いて、こっそりと、そちらを窺った。
ホウアンがセツナに与えた見立ての結果を仲間達も聞き及んでいたらしく、その程度なら、と思ったのだろう、彼と仲の良い同年代の少年達は言うに及ばず、少女達も、大人達も、果ては毒舌鋭い魔法使いルックまで、入れ替わり立ち替わり、セツナを見舞うべく盟主の部屋へ入って行くのがナナミには判り、夕暮れ時にやって来た、とてもとてもセツナが懐いている腐れ縁傭兵コンビに至っては、長過ぎない? と彼女には感じられたくらい居座ったので、「そうか、セツナが起きたのかも」と、思い至った彼女は部屋を出、一階へ降りると、再びレストランの厨房に忍んだ。
セツナを見舞う仲間達を、ナナミが自室から眺めていた頃、その厨房では、その日はハイ・ヨーは使っていない筈の巨大な鍋に、誰が作ったとも知れない、見た目は薬膳スープとしか思えぬ物が入っているのに気付いた女給のミンミンが、「まさか……」と恐る恐るスープを味見し、胃の腑の痙攣を起こして医務室に担ぎ込まれる、との騒ぎが起きていたのだが、そのようなこと、露程も知らぬナナミは、倒れたミンミンを運んだのがハイ・ヨー以下レストランの厨房担当者達だったが為に、廃棄処分を免れていた自作スープを温め直し、セツナの許へ持って行った。
「セツナー? 起きてるー?」
「あ、ナナミ」
「具合どう? 少しは良くなった? そろそろ起きた頃かなって思って、お姉ちゃん、ご飯持ってきたんだよ」
一度目の時と同じく、曰く『病人食』を乗せた盆を携えた彼女が部屋へ入ったら、思った通り、もう彼は目覚めていたけれども、カナタだけでなく、正軍師のシュウと医師ホウアンもいるのが知れ、ちょっぴりの落胆と、ちょっぴりの苛立ちを覚えつつ、彼女は、やっと自分を見てくれたセツナに、はい! と盆を差し出す。
「え、でも。僕は寝ちゃってたから知らなかったけど、昼間のが未だ残っ──」
「──いいじゃない。新しいのの方が、セツナだっていいでしょ?」
「……あのね、ナナミ。御免ね、僕、あんまり食欲なくって、ご飯、食べられそうにもないから……」
「駄目。そんなこと言ってちゃ駄目よ。少しくらいなら食べられるよ。一寸は食べないと元気出ないし、治るものも治らなくなっちゃったらどうするの!」
眼前に、ずずいと迫った盆を勢い受け取ってしまったセツナの口許が、微妙な感じに引き攣ったのは、多分、具合が悪いからなんだろう、と解釈し、ナナミは、カナタにもシュウにもホウアンにも口を挟ませぬ怒涛の勢いで、セツナに迫った。
「でも……」
「でも、じゃないでしょ。口答えしないで、お姉ちゃんの言うこと聞きなさい! ちっちゃい時からセツナの面倒見てきたんだから、お姉ちゃんには判るの!」
弟の口許の引き攣りが、少しずつ少しずつ、深く激しくなっていくのは見逃した彼女は、腰に両手を当てて、お小言を始め、
「…………あの、ね。ナナミちゃん」
「……ナナミ」
「ナナミさん、あの……」
見兼ねた、カナタ、シュウ、ホウアンが一斉に彼女へと呼び掛けたが。
「大丈夫! ね、セツナ?」
「う、うん……。じゃあ、一口だけね……。ホントに、あんまり食べられないから……」
如何とも例え難い表情を見せる三人を振り返ったナナミは、セツナのことなら私に任せて! と笑いながら言い切り、己を思ってくれている義姉を傷付けたくはないセツナは、手にしたままだった盆を膝の上に乗せ、土鍋の蓋を開け、「匂いと見た目は完璧なのになー……」と、溜息に似た吐息を吐いてから、眼差しのみで何やらを訴えてきているカナタ達を、やはり眼差しのみで制して、そろそろと、スープを蓮華で掬った。
……いや、掬おうとした……のだが。
片栗粉を溶きもせずに、こんもり……、と振り掛けた所為だろう、スープは、部分部分が煮凝りに似た巨大な『だま』になってしまっており、更にその『だま』は、蓮華を跳ね返してみせた程に固く。
心の中で泣きながら、セツナは、さりげなく固まりを避け、何とか掬った『スープ?』を、覚悟を決めて口に運んだ。
「………………………………っっ……!!」
「どうどう? 美味しいでしょ!」
「〜〜〜〜〜〜〜っっっっ!!!」
────根性だけを味方に、彼が何とか飲み込んだそれは、とてもではないが言葉に出来ない、壮絶な味だったらしい。
目を輝かせたナナミは、彼より、美味しい、の一言を引き出そうとしたが、次の瞬間、セツナの手から蓮華が零れ落ち、起こしていた上半身はベッドに倒れ込んで、土鍋は盆ごと引っ繰り返った。
「え? え? セツナ? どうしちゃったの?」
「セツナ!!」
その様に、駆け寄ったカナタは、熱いスープに塗れてしまった毛布や掛け布ごと鍋を床へと引き摺り落とし、セツナを抱き起こす。
「マ……、マクドールさ、ん…………。おな……お腹……」
「ホウアン、薬を!」
「はい! 今直ぐ!」
「盟主殿、大丈夫ですか!?」
一体、弟に何が起こったのだろう、と慌てるナナミを他所に、カナタは、彼女とは別の意味で慌てつつ、縋ってくるセツナの背を摩りながらホウアンへと怒鳴って、ホウアンは薬箱の中身を掻き回し、シュウも、血相変えて枕辺へと走り、
「も、もしかして、セツナの具合、本当は凄く悪いの…………?」
唯一人、ナナミだけが、見当違いに狼狽えた。
「ナナミ」
「ナナミさん」
「……そういう訳ではなくて、胃や腸が弱ってしまっているだけのことだと思うよ」
これは幾ら何でも、とシュウやホウアンはセツナを案じつつも、叱責すべくナナミを見遣ったが、彼女に真実を打ち明けるのはセツナの望みではない、とカナタは、二人が何か言うより先に、でっち上げを口にする。
「本当にそれだけ……? なら、いいけど……。……あ、そうだ! 汚れちゃったから、毛布やお布団の代わり、貰って来なきゃ!」
己の方を見もせずに、淡々とした口調で告げられたカナタの言葉は信じたものの、彼に縋るセツナの両手が、ぐちゃぐちゃの皺になるまで彼の上着の背を握り締める様を見ていると、セツナを囲うように抱くカナタを見ていると、どうしてか胸が苦しくなる、とナナミは、汚れ物や鍋を両腕に抱え、部屋を飛び出て行った。
「…………セツナ、大丈夫?」
「は、い……。何、とか…………。食べたの、僕で良かったです……。他の人だったら、本当に危なかったかも知れません……。ナナミ、何入れたんだろう…………。……うああ、気持ち悪い……」
旋風のようにナナミが去って、やっと室内を安堵が満たし、セツナは本音を垂れ流す。
「お薬です。飲めますか?」
「盟主殿。彼女を思うお気持ちは判りますが、一度、きちんとナナミと話し合って下さい」
「すみません、ホウアン先生……。────でも、やっぱり可哀想かなって思うし、強く言ってもな……、とも思うから……。……御免ね、シュウさん……」
「ですが、ナナミが何か調理をする度、この騒ぎでは困ります」
「うん、まあ、それはねー……。けど……。……未だ、昼間にナナミが置いてったのがあるから、それ舐めてみれば判ると思うけど、あんなんを、真顔で『美味しい?』って訊けるナナミには、本当に、自分のお料理の味が判らないんじゃないかな、って……。悪気があってやってる訳じゃないしねー……」
うぇぇぇぇぇ……、とカナタに縋りながら、ホウアンが出してくれた薬を飲みつつ、セツナは、シュウよりの苦言に苦笑を返した。