共に、盛夏の暑さを吹き飛ばす為の水遊びも兼ねた釣りに興じた少年達と、仲良く昼食も摂ったセツナは、食休みしようと自室に戻った処で、待ち構えていた鬼正軍師殿に捕獲された。
「執務にも、遊び以上に勤しんで下さい」
あ……、との顔をし、逃げ出そうとした彼の肩をがっちり掴んで、逃走を阻んだ正軍師のシュウは、何処となく怒りの滲む声で彼を引き摺り、己が執務室兼自室に押し込んで、副軍師のクラウスやアップルと共に逃走阻止の為の『包囲網』を敷くと、ドン! と彼の目の前に書類の束を積み上げる。
「えー……。こんなに? シュウさん、僕、何時も言ってるじゃない。大人の人に出来ることは、大人の人がすればいいこと、大人の人がしなきゃならないこと、って」
「そのお言葉には一理あると私も思いますが。盟主殿が、盟主殿の責務を果たされた上でのお言葉でない限り、私は聞く耳は持ちません。何事も、やるべきことをやってから、です」
「……んもう……。シュウさんのイケズ……」
そこまでの枚数の、形の上だけでも盟主の決済を必要とする書類達に、セツナは、ぶうぶうと言い垂れたが、シュウに主張を一蹴され、渋々、自業自得な量の書類達に向き合った。
軍内の者達に、決して性格が良いとは言えず、汚い権謀術数にばかり長けている、無表情無感情な鉄面皮正軍師殿、と密かに陰口を叩かれることも多いシュウは、確かに滅多には感情を顔を出さないが、それは、己が心を覆い隠すのが軍師としての正しい有り様で、敵からも味方からも悪し様に罵られるまでの策を立てられなければ、軍師など何の価値もない、というのがシュウが抱える信念の一つだからであって、彼とて人の子、ちゃんと喜怒哀楽の持ち合わせはあり、セツナの前では、彼の表情は常よりも豊かになる。
時に奔放過ぎる振る舞いをする盟主殿に説教をかますべく、目を吊り上げて鬼のような面になって……、というのが、彼が見せる専らの表情だけれども、それでも、『小さな』盟主を相手にしている際のシュウは何処か人間臭く、セツナがちゃんと仕事を終えれば小言は引っ込めるし、茶や茶菓子を供にの休憩時間も取ってくれるから、口で言う程、セツナはシュウ達に取っ捕まって執務に勤しむ時間を嫌ってはいない。
シュウも、説教に熱込め過ぎる正軍師殿を、まあまあ……、と宥めてくれるクラウスやアップルも、自分を大切に思ってくれているのが、手に取れるように感じられるひと時だから。
なので、自作の、珍妙な節の『お仕事は面倒臭いの歌』を口遊んでは、シュウに丸めた書類で頭を引っぱたかれながらも、セツナはその日、午後の間中、溜めてしまった書類との戦いに励み、無事、全てを片付け終えた後、彼等と遅い午後のお茶を楽しんで、又、城内散策に飛び出して行った。
敵国との戦争状態にある軍、という意味では穏やかだった夏の日の夕暮れ時、訓練や仕事を終えた仲間達は、皆、疲れたような、けれど、すっきりと晴れやかでもある顔で以て一日を締め括ろうとしており、疲れを癒すべく風呂へ、腹を満たすべく食堂へ、と思い思い散って行き、セツナも、探しに来た義姉と共に夕食を摂って、その日二度目の入浴を済ませて、未だ、寝ちゃうには一寸早いかな、と、夕刻から深夜に掛けて最も賑やかになるレオナの酒場を覗いた。
気風の良い女将のレオナと、小気味良い掛け合いをしながら酒を呑み下していく呑ん兵衛で溢れる酒場は、本当に活気があり、そんな場に集う男達は、実に漢らしく、荒っぽい感じでセツナを可愛がる者達ばかりで、彼等に構って貰いつつ、時にはからかわれつつ、粗野な漢達を怒鳴り飛ばすレオナには、馬鹿共の言うことなんか覚えちゃいけないよ、と庇われつつ。
少々遅くまで酒場での時を過ごしたセツナは、本当に、今の僕は幸せだな、としみじみ噛み締めながら、自室のある最上階へと向かい、ナナミの部屋を覗いて、お休み、と告げてから部屋に戻り、寝支度を整えベッドに潜り込んだ。
「…………お休みなさい……」
明日も早いから、と早々に燭台の火を落とし、聞く者はおらぬ就寝の言葉を告げて、一度は瞼を閉ざしたものの、彼は直ぐに、闇の中、ぱちりと目を開ける。
────今の己は、本当に、有り得ぬくらい、信じられぬくらい恵まれていて、文句など言ったら、この上贅沢など言ったら、罰が当たりそうなまでに幸せで。
でも、どうしても、寂しい……、と彼は小さな溜息を零した。
……幼い頃から常に一緒だった親友のジョウイは、本当の想いも考えも教えてはくれぬまま、敵国となってしまった『祖国』、ハイランドの将軍になってしまって、何時の日か、彼とも戦わなくてはならず。
大切なモノを守る為に、その力を得る為に、ジョウイと二人分け合って宿した始まりの紋章の片割れ、輝く盾の紋章は、大切な仲間や大切な人達を癒してくれる『お便利アイテム』と掛け値なしに割り切って後も、『重く』。
袂を分かってしまった親友とのことも、『お便利アイテム』なのに何処か重たい紋章のことも、それっぽっち、と言い切れる、些細な事柄であり、些細な運命でしかないと、嘘偽りなく思っているのに。
どうして僕は、ちょびっとだけ『辛い』かな……、なんて考えてしまうんだろう。
どうして僕は、この手で変えていかなきゃならない運命を、上手く笑い飛ばせないんだろう……、と。
闇の中、ベッドの天蓋の一点を見詰めながら、セツナは、そんなことをぼんやり考えた。
──僕の周りには、沢山の大切な人達、沢山の大切な仲間達がいてくれるのに。
皆々、僕を想ってくれて、僕を大切にしてくれて、僕に幸せをくれるのに。
どうして僕は、皆が差し出してくれる手を、注いでくれる想いを、痛い、と思うんだろう。
……皆々、僕へ、傍にいてやる、と言ってくれて、守ってあげる、と言ってくれて、大切だよ、とも言ってくれて。
僕のすることも、やることも、全部全部、暖かく見守ってくれて。
…………でも、誰も。
ナナミさえ。
何が遭っても、僕がどう変わっても、全てを受け止めるとは言ってくれない。
何処までも共に、とは言ってくれない。
盟主としての僕には、最期まで共に在ると誓ってくれても、盟主でない僕には、誰もそう言ってくれない。
……何時か、この戦争が終わっても。何時か、僕が盟主じゃなくなっても。
『僕』でしかない僕と、何処までも共に……、とは言ってくれない。
ナナミは、似たようなことを言ってはくれるけど、ナナミが僕に向ける想いは、未来じゃなくて、『昔』。
何時か、僕達の街だったキャロ──この戦争が始まる前の、僕達がこんな風になる前の『昔』、あの中に戻る為だけの…………。
………………何時か、何時か。何時の日か。
この戦争が終わっても。
幸せの為になら、大切な皆を幸せにする為になら、盟主って呼ばれるだけの人殺しになってもいいや、って思った僕が、昔の僕じゃなくなっても。
今の僕ですらなくなっても。
僕ですらない僕を、それでも僕と受け止めてくれて、何時までも『僕』の傍にいて、全てを共に、なんて言ってくれる人は、きっと、何処にもいないんだろう。
…………そんなこと、当たり前だって判ってる。
僕には僕の毎日と人生があるみたいに、皆には皆の毎日と人生があるから。
そんなの、当たり前のことで、誰だって、他人の人生になんか添えっこない。
……でも…………、だから僕は寂しくて、僕の本当の想いは、どれだけ待っても返事の来ない片便りにしかならなくて、皆が僕にくれる想いを、僕は、片便りにしか出来ない……。
…………御免なさいって思うけど。
我が儘で、欲が深くて御免なさいって、思うけど。
僕は、僕だけの言葉が欲しい。
僕だけの手が欲しい。
────たった一言でいい。
共にゆこう。
何処までも、共にゆこう。
……その一言が欲しい。
そう言ってくれる人の、手が欲しい。
盟主じゃない僕を、導いてくれる人が欲しい。
──────何時まで経っても訪れぬ眠りを待ちながら、唯、闇だけを見詰め。
セツナは一人、思い続けた。